集落で相次いだ家族間殺人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 16:55 UTC 版)
「青森県新和村一家7人殺害事件」の記事における「集落で相次いだ家族間殺人」の解説
事件後、本事件の舞台となった弘前市小友地区では肉親の殺人事件が3回にわたり発生した。 1954年10月、農家の三男(当時25歳)が母親(当時49歳)に小遣いをせびり、母親をかばおうとした次男(当時25歳)に追い払われた。これに逆上した三男は匕首を持って家に戻り、次男を切りつけたが、逆に次男に取り押さえられ、首を絞められ死亡した。次男は同事件前にも不良の弟(三男)に制裁を加えようと、出刃包丁・草刈り鎌で三男を切りつけ、軽傷を負わせていたため、殺人容疑で逮捕されたが、殺意を否定し、後に正当防衛が認められ釈放された。 1955年10月、集落の裕福なリンゴ農家の次男(当時21歳)が、父親(当時48歳)に対し「北海道へ出稼ぎに行くから金を出せ」と迫り、断られると逆上して父親の首を絞めた。これに対し父親が咄嗟に鉄鍬を持って抵抗し、その鍬で次男の顎・首を何度も殴ったところ、次男は失血死した。同事件は被害者(次男)の日ごろの素行の悪さから、本事件や1. と同様に加害者(父親)への同情が集まり、情状酌量により懲役4年の判決が言い渡された。 1956年3月、農家の長男(当時29歳:無職)が遊ぶ金欲しさに自宅から種籾を盗み出したが、母親(当時63歳)と弟(当時26歳)に見つかって家を追い出された。これに対し、長男は出刃包丁を持ち出して弟を刺し殺そうとしたが、咄嗟に薪割り(長さ30 cm)を手にして抵抗した弟に頭を何度も殴られ、頭蓋骨を粉砕されて死亡した。同事件も集落から加害者への同情が集まり、結果的に加害者は傷害致死罪で在宅起訴された。 それらの事件は(本事件を含め)、いずれも農閑期に裕福な農家で発生したもので、かつ被害者は一家の素行不良者、加害者は真面目な家族というものだったが、その(集落で殺人が連続して発生した)事実はほとんど知られていない。その背景について、石川清 (2015) は「事件の舞台となった小友集落が帰属していたS村(新和村)は、2件目の殺人と3件目の殺人の間にH市(弘前市)と合併したため、地元の人間以外から見れば『S村で2件、H市で2件の事件が起きた』ように見えるようになった。同じ小さな集落で連続して4件も肉親殺人が起きたようには見えにくい」という旨を述べている。また、石川の取材に答えた地元の住民は「本事件と2回目の事件では、殺人を犯したにも拘らず、加害者が情状酌量により軽い罪で済み、誰も加害者を非難しなかった。そこで『一家の鼻つまみ者など、いざという時は殺せる』という風潮が生まれ、親の言うことを聞かない不良家族に対し『殺されるぞ』という脅しの言葉が家庭内で日常的に口にされるようになった」という旨を証言している。 青森県は1956年当時、尊属殺人が長野県・秋田県と並んで「三大県」と呼ばれるほど頻発していたが、『東奥日報』紙上で行われた座談会では、東北人の気質(自分の思ったことを発表できない)や、長年の間に蓄積された不満・肉親のもつれなどが、同県における家族間殺人多発の背景として指摘されている。小友集落で相次いだ事件について、佐々木直亮(弘前大学医学部衛生学教授)は4事件とも冬から春先にかけて発生している一方、(過去15年間続いていた)一般的統計では6月の犯罪発生率が低くなっている点を指摘し、農繁期や梅雨などの季節的変化が関連している可能性を指摘している。 また、古川忠次郎(弘前大学教育学部心理学教授)は新和村の人から「ここから見える岩木山は鋭角的で刺々しい感じだから、岩木山を崩して丸くしないことには事件が後を絶たない」という話を聞いたことがある旨を述べ、赤石英も自身の所有している諸国の風俗気質を記した古文書に、陸奥国の人の気質について「この国辺鄙、人の気息詰り片寄りて尖りなり」「子供を生みてもブツカえして父母これを殺すことあり」とあることを挙げており、それに対して『東奥日報』の記者は「遠い昔から伝わっているそのような気質が犯罪とつながりを持つ機会が多いとでもいうわけかな。」と指摘している。その上で、同種事件の対策として、佐々木は広い意味の生活改善、古川は家庭教育・社会教育の改善、和田は「因襲と迷信打倒」や学校教育・社会教育の推進をそれぞれ挙げている。
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