集落としての真玉橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 01:23 UTC 版)
17世紀初期には豊見城間切真玉橋村としての記録がある。『琉球国由来記』『遺老説伝』によれば、中国からわたってきた人々が真玉橋の東に定住し、陶窯を設けて瓦器を焼き琉球における最初の焼瓦となったというが、その年代は不明である。明治以降も真玉橋村として存在し、1880年における戸数は62、人口304人だった(県統計概表)。1903年豊見城間切内の嘉数村および根差部村と合併して真嘉部村となり、1908年に沖縄県及島嶼町村制施行により豊見城村の一部となった。
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