集落の成立と発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 08:04 UTC 版)
「コルンヴェストハイム」の記事における「集落の成立と発展」の解説
カンシュタット(ドイツ語版、英語版)からのローマ街道がコルンヴェストハイム付近を通っていた。そのコースは、野道として部分的に遺っている。その一部は、コルンヴェストハイム東のテオドール=ホイス実科学校近くに復元されている。市の西部、アウトバーンが通るコースも青銅器時代の古い街道である。 コルンヴェストハイムは、おそらく4世紀から5世紀にアレマン人の散村として成立した。最初の文献記述は、780年頃にロルシュ修道院のコデックス・ラウレスハメンシス(ドイツ語版、英語版)の中に Westheim(ヴェストハイム)という記述がなされている。Kornwestheim という形での記述は1472年に初めて現れる。現在の表記が慣例化されるのは17世紀以降である。 元々は、現在では場所が判らなくなっている東の集落オストハイムと区別するために西の集落をヴェストハイムと呼んでいたと考えられる。コルンヴェストハイムは、何世紀もの間、周辺を肥沃な黄土の土壌に恵まれた裕福な農村であった。1303年にアスペルク伯はコルンヴェストハイムをヴュルテンベルク公に売却した。初めはアムト・カンシュタットに属したが、1719年からアムト・ルートヴィヒスブルク、1756年からオーバーアムト・ルートヴィヒスブルクに属した。1806年からは、1918年まで存続したヴュルテンベルク王国の一部であった。 1770年から1781年まで神学者でエンジニアのフィリップ・マテウス・ハーン(ドイツ語版、英語版)がコルンヴェストハイムで働いた。彼は1771年に現存する牧師館を建設した(ヴィルヘルム・フリードリヒ・ゲッツにより建造された)。
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