関西学院時代
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関西学院大学(関学)は関西における私学の雄であるが、その創立70周年記念事業として、社会学部の創設に続き、理学部を開設することを決めて準備委員会を設けて検討していたが、1960年1月仁田に白羽の矢を立て、理学部創設の中心的役割を果たすよう依頼してきた。関学としてははじめての理科系学部である。仁田は阪大理学部の創設に関わり、その後30年に近い期間、その運営に携わった経験から、理学部はかくあるべきという自分なりのイメージができていたところに持ち込まれた勧誘であったので、進んで引き受けることにした。物理学科と化学科の2学科だけの理学部(いまは6学科の理工学部)であったが、卒業生の就職先のことを考え、また学術の発展の方向をも考慮し、物理学科は物性物理を中心とし、化学科には生化学を含めた。仁田はその広く深い人脈をたどって、全国から、老練、若手の研究者を集め、私学には珍しく教員/学生の人数比の大きな組織にした。関学経営陣としては最大限仁田の構想を受け入れた結果と考えられる。1961年4月には第1期の学生を受け入れて発足した。上述のフグ毒の研究は発足間もない理学部で行われたものであった。それから6年、1966年には文化勲章を授与されるという特筆すべきこともあったが、1967年4月には関学理学部に大学院博士課程も認可され、順調に発展した。同時に仁田は理学部創設以来努めていた理学部長の職を任期満了で退き、定年までの1年間は比較的平穏な生活を送ることができた。ちょうどそれは全国にいわゆる学園紛争の嵐が吹き始める年でもあった。定年後も関西学院の理事として運営に当たり、また大学院の非常勤講師として1983年10月入院するまで学生との接触を続けた。1983年以来、阪大仁田研究室卒業生のMizuno社長水野健次郎(および子息水野正人)からの寄付により関学大学院仁田奨学金(仁田記念賞)が設けられた。 1983年胃がんに侵され手術の甲斐もなく1984年1月16日永眠した。逝去の前には令嬢の薦めもあって洗礼を受けた。仁田とは1歳違いで19世紀の人間か20世紀生まれかとよく言いあっていた阪大理学部の同僚赤堀四郎(上述)は、日本の生化学のパイオニアの一人であったが、1984年3月、日本学士院の総会で仁田の追悼の辞を述べ、その中で、仁田が好んで持ち出していた「にたんの四郎」の話を披露した。これは仁田四郎忠常のことで、忠常は鎌倉時代、源頼朝が富士で巻狩りをしたとき、暴れ猪が突進してきたのに、頼朝の近習が誰一人それを止められなかった。忠常は勇猛にも猪にまたがって仕留めたという話である。「その仁田四郎忠常は私の先祖だ」と仁田は大柄な体をぴんと伸ばして話した。たしかに仁田の父は伊豆半島の仁田の出身だったから、ありそうなことであるが今となっては確かめるすべもない。阪大教授時代に秘書には会議室へ行くと言いながら、たまたま近くにいるスタッフや学生を連れて玄関から道路を横断してスタスタとコーヒーショップへ入っては、このような雑談をしながら、科学のこと、研究のことを論じるのが日課だった。
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