関西学院時代とは? わかりやすく解説

関西学院時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:31 UTC 版)

仁田勇」の記事における「関西学院時代」の解説

関西学院大学関学)は関西における私学の雄であるが、その創立70周年記念事業として、社会学部創設続き理学部開設することを決めて準備委員会設けて検討していたが、1960年1月仁田白羽の矢立て理学部創設中心的役割を果たすよう依頼してきた。関学としてははじめての理科系学部である。仁田阪大理学部創設関わりその後30年に近い期間、その運営携わった経験から、理学部はかくあるべきという自分なりイメージができていたところに持ち込まれ勧誘であったので、進んで引き受けることにした。物理学科化学科の2学科だけの理学部(いまは6学科理工学部であったが、卒業生就職先のことを考え、また学術発展方向をも考慮し物理学科物性物理中心とし、化学科には生化学含めた仁田はその広く深い人脈たどって全国から、老練若手研究者集め私学には珍しく教員学生人数比の大きな組織にした。関学経営陣としては最大限仁田構想受け入れた結果考えられる1961年4月には第1期学生受け入れて発足した上述フグ毒研究発足間もない理学部行われたものであった。それから6年1966年には文化勲章授与されるという特筆すべきこともあったが、1967年4月には関学理学部大学院博士課程認可され順調に発展した同時に仁田理学部創設以来努めていた理学部長の職を任期満了退き定年までの1年間比較平穏な生活を送ることができた。ちょうどそれは全国いわゆる学園紛争の嵐が吹き始める年でもあった。定年後関西学院理事として運営に当たり、また大学院非常勤講師として1983年10月入院するまで学生との接触続けた1983年以来阪大仁田研究室卒業生Mizuno社長水野健次郎(および子息水野正人)からの寄付により関学大学院仁田奨学金仁田記念賞)が設けられた。 1983年胃がん侵され手術甲斐もなく1984年1月16日永眠した逝去前に令嬢薦めもあって洗礼受けた仁田とは1歳違い19世紀人間20世紀生まれかとよく言いあっていた阪大理学部同僚赤堀四郎上述)は、日本生化学パイオニア一人であったが、1984年3月日本学士院総会仁田追悼の辞を述べその中で仁田好んで持ち出していた「にたんの四郎」の話を披露した。これは仁田四郎忠常のことで、忠常は鎌倉時代源頼朝富士巻狩りをしたとき、暴れ突進してきたのに、頼朝近習誰一人それを止められなかった。忠常は勇猛にまたがって仕留めたという話である。「その仁田四郎忠常は私の先祖だ」と仁田大柄な体をぴんと伸ばして話したたしかに仁田の父は伊豆半島仁田出身だったから、ありそうなことであるが今となっては確かめるすべもない。阪大教授時代秘書には会議室へ行くと言いながら、たまたま近くにいるスタッフ学生連れて玄関から道路横断してスタスタコーヒーショップ入っては、このような雑談しながら科学のこと、研究のことを論じるのが日課だった。

※この「関西学院時代」の解説は、「仁田勇」の解説の一部です。
「関西学院時代」を含む「仁田勇」の記事については、「仁田勇」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「関西学院時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「関西学院時代」の関連用語

1
2% |||||

関西学院時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



関西学院時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの仁田勇 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS