開発の背景と北米マーケット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/28 21:52 UTC 版)
「MG・MGB」の記事における「開発の背景と北米マーケット」の解説
第二次世界大戦後、イギリスに駐留したアメリカ合衆国軍兵士は、小型で軽量なMGを初めとするスポーツカーに魅了されていた。またイギリスの自動車産業は、疲弊した国内向けだけではなく、戦禍に遭わなかったアメリカ合衆国を中心とした北米マーケットへの輸出を増やす必要に迫られた。 MGブランドを傘下に持つ、企業体ナッフィールド・オーガニゼーションは、戦後最初のモデルで多数の輸出実績を残したMG TC(1945年)に続く、TD(1950年)及びTF(1953年)において北米向け左ハンドル仕様の存在を前提とした設計を行った。そして、1952年のナッフィールド・オーガニゼーションとオースティン・モーター・カンパニーが合併し誕生したBMCにおいて、MG部門は1955年、流麗なボディをラダーフレームの上に架装した、MGAを送り出した。オープンモデルとクーペモデル、DOHCエンジン搭載モデル合わせて10万台あまりを生産、ほぼ半数を北米に輸出した。 1950年代後半になるとMGAの後継モデルの開発がスタートし、1962年前半には後継モデルの試作先行生産が行われた。そして同年9月、MGBが正式に発売されたのだが、量産第1号車は、アメリカ合衆国向けの左ハンドルモデルであるように、当初から北米マーケットを重視した設計を行なっており、総計52万台の生産台数のうち三分の二が北米へ輸出された。1960年代中の北米マーケットでは、MGBに限らずイギリス車は好調に販売され続けた。 1970年代以降は北米マーケットでの日本製スポーツカーフェアレディZや、欧州製スポーツカーとの競合に悩まされた。また、北米のマスキー法と呼ばれる排気ガス規制による、燃料供給系統の設計変更でのエンジン出力の低下と、1974年の衝突安全基準の規制による大型の衝撃吸収バンパー(通称ラバーバンパー)の装備などによる重量増加と外観デザインの変更により、スポーツカーとしての魅力を失ったとされる。時代の趨勢は、オープンカーよりも快適なクーペやGTカーを求めると共に、安全面でもオープンカーは不利であった。 1980年1月、当時の生産会社のBL首脳陣は、北米市場での販売の低迷を主たる理由として、1980年10月をもってMGBの生産を中止、MGそのものの歴史の終焉を意味するアビンドン工場の閉鎖をも決定した。数々の反対運動も盛んに行われたが、結局は1980年10月22日をもってMGBの生産は終了、直後にアビンドン工場は閉鎖となった。 MGBの歴史は、北米での各種規制と、オイルショックとの戦いでもあり、またコストダウンとの戦いでもあった。初期モデルにおけるアルミ軽合金製エンジンフードや、スチール外部パネルの接合面ハンダ処理、インテリアにおけるレザーシート、メッキ部品などは、後期モデルではなくなってしまうが、その代わりに、衝撃吸収型ステアリングコラムの採用を初めとする安全装備の充実などが計られている。
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