長野電気発足とその後
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信濃電気が資本金1700万円の会社であったのに対し、これを傘下に収めた長野電灯は資本金1600万円であった。しかし会社の規模はほぼ同等でも、1930年代前半の段階では業績・株価は信濃電気側が大きく見劣りしていた。その後信越窒素肥料の整理などで信濃電気の経営改善が進むと、同社の配当率は1935年(昭和10年)9月期決算で年率7パーセントに、次の1936年(昭和11年)3月期決算からは年率8パーセントに増配となり、年率8パーセント配当を維持する長野電灯と同水準に回復した。こうして信濃電気と長野電灯を対等の条件で合併する条件が整った。 1937年(昭和12年)1月6日、信濃電気・長野電灯両社はそれぞれ重役会を開いて新設合併による新会社「長野電気株式会社」の設立を決定した。当時の報道によると、両社の合併は過去2度浮上しながらも機運が熟さず立ち消えとなっていたが、今回は対等合併の条件が整ったことに加え監督官庁からの勧奨もあり合併が実現したという。合併決定に際し、合併によって冗費の節約に努めつつ発電・送電の統制を緊密なものとして会社の基礎を固め、需要家のためのサービス改善を目指す、という合併目的が両社から発表された。同年1月22日、信濃電気は臨時株主総会、長野電灯は定時株主総会をそれぞれ開催し、長野電気の設立とそれに伴う自社の解散を決議する。両社の合併は同年3月23日付で逓信省より認可が下りる。そして3月31日に新会社・長野電気の創立総会が開かれ、同日をもって信濃電気・長野電灯両社は解散した。 解散前、1936年9月末時点における信濃電気の供給成績は、電灯需要家数10万2422戸・取付灯数29万3934灯、一般電力需要家1817戸・一般電力供給8049馬力(約6,002 kW)、電熱需要家518戸・電熱供給1,170 kW、他社供給契約36,450 kWであった。大口需要家である信越窒素肥料への供給は特殊電力32,000 kW(1936年末時点)に及ぶ。一方で、1936年末時点の逓信省資料によると電源は自社水力発電所14か所・総出力33,060 kWと長野電灯からの受電2,502 kW(ほかに相互融通3,000 kW)、長野電鉄からの受電1,570 kWからなる。 長野電気の発足に前後して、旧信濃電気傘下の信越窒素肥料では大がかりな整理が実施された。まず提携相手であった日本窒素肥料が信越窒素肥料からの撤退を決定したことから、1937年3月に日本窒素肥料の持株4万株・200万円分を信越窒素肥料で買い入れて消却した。次いで旧信濃電気の持株6万株・300万円分についても5分の1に減資しつつ、長野電気の全額出資による370万円の増資も実施して、資本金を430万円に改めた。減資と増資によって得た資金は、工場貸与期間の満了に伴う操業再開に備えて累積損失の解消や借入金の全額返済に充てられた。こうした処理ののち、信越窒素肥料は1937年10月1日より自社操業の再開に漕ぎつけた。日中戦争勃発に伴う軍需景気を背に再開後の経営は順調で、翌1938年5月期の決算で初配当を達成している。1940年(昭和15年)には信越窒素肥料から信越化学工業へと社名を改めた。 1940年代に入ると、日中戦争の長期化に伴って電力の国家管理を強化する動きが強められていき、既存の電気事業者を国策会社日本発送電および地域別の国策配電会社へと再編することが決まった。1937年に発足したばかりの長野電気もその再編対象事業者に含まれており、1941年(昭和16年)10月と翌1942年(昭和17年)4月に分けて一部設備が日本発送電へと出資される。残部は1942年4月に長野県を配電区域に含む中部配電へと吸収され、同年5月に長野電気は解散した。
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