鑑真の渡日と戒律(かいりつ)の伝来
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「唐招提寺」の記事における「鑑真の渡日と戒律(かいりつ)の伝来」の解説
鑑真(688年 - 763年)の渡日については、淡海三船撰の『唐大和上東征伝』(宝亀10年・779年成立)が根本史料となっている。唐招提寺の歴史については同書のほか、『招提寺建立縁起』、江戸時代のものであるが元禄14年(1701年)義澄撰の『招提千歳伝記』などの史料がある。『建立縁起』は、承和2年(835年)に鑑真の孫弟子にあたる豊安が記した『招提寺流記』が原本であるが、この原本はすでに失われ、抄出したものが『諸寺縁起集』(護国寺本、醍醐寺本)に収録されている。 鑑真は仏教者に戒律を授ける「導師」「伝戒の師」として日本に招請された。「戒律」とは、仏教教団の構成員が日常生活上守るべき「規範」「きまり」を意味し、一般の仏教信者に授ける「菩薩戒」と、正式の僧に授ける「具足戒」とがある。出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という場で、「三師七証」という授戒の師3人と、証明師(授戒の儀式に立会い見届ける役の高僧)7人のもと、「具足戒」を受けねばならないが、当時(8世紀前半)の日本ではこうした正式の授戒の制度は整備されておらず、授戒資格のある僧も不足していた。そのため、官の承認を経ず、私的に出家得度する私度僧が増え、課役免除のために私度僧となる者もいて、社会秩序の乱れにつながっていた。 こうした中、天平5年(733年)、遣唐使と共に渡唐した普照と栄叡という留学僧がいた。彼らが揚州(現・江蘇省)の大明寺で高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年10月のことであった。普照と栄叡は、日本には正式の伝戒の師がいないので、しかるべき高僧を推薦いただきたいと鑑真に申し出た。鑑真の弟子達は渡航の危険などを理由に渡日を拒んだ。弟子達の内に渡日の志をもつ者がいないことを知った鑑真は、自ら渡日することを決意する。しかし、当時の航海は命懸けであった上に、当時、唐から出国することは国禁を犯すことであった。そのため、鑑真、普照、栄叡らの渡航計画は挫折の連続であった。1回目の渡航計画(743年)は、鑑真の弟子の如海の密告により、船を出す前に発覚し、普照と栄叡が捕縛されてしまった。2回目の渡航計画(同年)では、船は揚子江を下ったものの強風で難破する。第3・4回目の渡航計画(744年)は密告によって頓挫し、船を出すこともかなわなかった。748年、5回目の渡航計画では嵐に遭って船が漂流し、中国最南端の海南島まで流されてしまった。陸路揚州へ戻る途中、それまで行動を共にしてきた栄叡が病死し、高弟の祥彦(しょうげん)も死去、鑑真自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航計画でようやく来日に成功するが、鑑真は当時既に66歳になっていた。 遣唐使船に同乗し、琉球を経て天平勝宝5年(753年)12月、薩摩国に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津(大阪)に上陸した。同年4月、東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け、沙弥、僧に具足戒を授けた。鑑真は天平勝宝7年(755年)から東大寺唐禅院に住した後、天平宝字3年(759年)、前述のように、今の唐招提寺の地を与えられた。大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られた鑑真は、天平宝字7年(763年)5月、波乱の生涯を日本で閉じた。数え年76であった。
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