銀行勤務時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 09:00 UTC 版)
大学卒業後は富士銀行に入行、出身地である船場支店での勤務を皮切りに、順調な行員生活を送るが、内実は戦後サラリーマンの典型である、家庭を顧みる事の無いモーレツ社員であった。ストレスで胃に穴が開こうが銀行を休む事なく働き続けたその姿は、戦後の日本経済を支えた多くの企業戦士共通のものであった。順調に出世を重ね経理部長、取締役企画部長、同本店営業部長、常務取締役、代表取締役副頭取を経て1987年(昭和62年)6月、代表取締役頭取に就任した。 当時は金融環境の変革期であり、金利の自由化や金融市場の国際化が進み、銀行間の競争もより一層激化していた厳しい状況にあった。それに加えて日本が、プラザ合意後の円高による景気悪化を避ける為の金融緩和や、アメリカなどとの貿易摩擦回避の為に内需喚起を図るべく財政拡大を図った事で、資金の流動性が過剰に膨らみ、株や土地に投機熱が向かうバブル景気が醸成されていった時期でもあった。それは銀行をまさに、「バスに乗り遅れるな」という錯覚に陥らせ、過熱した融資競争に走らせるに足る充分な環境であった。富士銀行も例外ではなく、そのような状況下でトップに立った者としては、競争に取り残される訳にはいかなかった。端田自身は常に顧客第一主義を掲げ、儲けに見合ったあるいはそれ以上のサービスを提供する事を心掛けて、顧客に対する過度な儲けを戒めていた。また、自由闊達でコミュニケーションが常に取れた行風を望んでいたが、そのような理想とは裏腹に、銀行間の融資競争や世間の狂騒的な勢いに巻き込まれ、結果的に他行との過度な競争を行員に強いる事となってしまった。 1990年(平成2年)6月には空席であった会長職も兼任したが、翌1991年 (平成3年)6月、大阪府民信組への紹介預金や赤坂支店不正融資事件に関する責任を取って代表取締役会長に退き、頭取職を後任の橋本徹に譲り、同年10月には、代表取締役会長も辞任、代表権の無い相談役に退いた。富士銀行だけではなかったものの、他行に負けるなと鼓舞して過度な融資に走らせ、「収益ナンバーワン」の奪回を目指し、支店など第一線の行員たちにはかなりのプレッシャーがかかっていたとの指摘もされている。 会長辞任後は、そのまま会長職が不在となった為、相談役として後任の橋本頭取を支えるべく、これまで通り忙しく業務をこなしたが、橋本が会長に就任した90年代後半以降はようやく落ち着き、1998年(平成10年)5月、顧問に就任、2002年(平成14年)4月、日本興業銀行、第一勧業銀行との3行合併後に誕生したみずほフィナンシャルグループでは名誉顧問となった。
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