野井倉開田
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 14:06 UTC 版)
馬場の後を継いで開田を行ったのが義兄の野井倉甚兵衛である。野井倉は蓬原開田で馬場の事業に助力し、菱田川を挟んで対岸に位置する地を蓬原とともに開田させることを夢見ていた。野井倉開田自体は江戸時代から構想が存在し、1892年(明治25年)に宮脇政右衛門・久保田常右衛門がこれを引き継ぎ30aを開田させていた。野井倉は1912年(大正元年)に一千町歩(1000ha)開田計画を樹立し、90%を隧道区間とする12.9kmに及ぶ導水路開削を柱とする基本調査を申請するが、県からは技術的・資金的に困難との判断が下された。 野井倉は計画再興を目指して1931年(昭和6年)に「野井倉耕地整理組合」を設立。各方面との交渉を行い、1938年(昭和13年)に水力発電所の当地への建設を検討していた日本水電を施工者とする契約を締結。1941年(昭和16年)には農地開発法に基づく農地開発営団へ事業が継承され、国営事業として開田がなされることとなった。1942年(昭和17年)より学徒を含むのべ23,400人を動員して開田事業が開始されたが、大東亜戦争長期化の煽りを受けて開田区域に帝国海軍志布志基地(野井倉飛行場)が建設されることとなり、事業は一部中断を余儀なくされた。野井倉飛行場は完成を待たずして空襲を受け、使用されることはなかった。終戦後飛行場がGHQから返還されると、事業は農地開発営団から農林省へ継承され、食糧増産のために国費での開田事業再開が決定。しかし膨大な物資・資金を必要とする導水路工事は経済安定本部から中止命令が一旦下されることとなった。陳情の末工事は再開されることとなり、数か月で竣工へこぎ着けた。 通水式の前日である1949年(昭和24年)6月4日には昭和天皇が視察訪問し、野井倉夫妻を慰労する。昭和天皇は1942年(昭和17年)にも、開田工事の様子を案じて侍従に視察させたことがあった。翌6月5日には通水式が挙行され、以降植付けがなされていった。そして1952年(昭和27年)10月から1953年(昭和28年)7月まで計画水量毎秒5トンに対応する牛ヶ迫頭首口の堰堤改修がなされ、野井倉開田は完工に至った。明治期の当初計画から60年以上を費やしたことになる。1955年(昭和30年)に野井倉開田記念碑が建立され、椋鳩十による「農夫は土の恵みにひたり、陽は金に」という句が刻まれた。 バッチョ笠をかぶり愛用の自転車で戦時中も資金集めに奔走し、開田に生涯を捧げて成し遂げた野井倉甚兵衛はその不屈の精神が高く評価され、地元の偉人として小学校の社会科の副読本で取り上げられている。
※この「野井倉開田」の解説は、「菱田川」の解説の一部です。
「野井倉開田」を含む「菱田川」の記事については、「菱田川」の概要を参照ください。
- 野井倉開田のページへのリンク