蓬原開田
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 14:06 UTC 版)
1892年(明治25年)6月、都城から隈元宗正・松山篤実、熊本から川村競・江崎四郎の4人が発起人となり水路工事に着工。取入口の中途変更や固い地盤に対する難工事で次第に資金不足に陥り、前田正名を通じて京都の実業家大沢善助を頼ることとなった。1895年(明治28年)11月、大沢善助・堤弥兵衛・高木文平の3人を資本主とすることで工事が再開。1898年(明治31年)3月24日に水路は完成し、約120haが開田された。しかし特殊条件下で農業生産は振るわず、水不足や雑草問題なども相まって収穫能率が極めて悪かった。事業の中心人物であった隈元・川村の両氏が病死すると事業は停滞し、開田区域は140ha余が拡張されたのみであった。 東京から帰郷し蓬原の地に馬場病院を開いていた馬場藤吉は、地域の生活苦打開のため事業の再興を図った。1912年(明治45年)3月に「西志布志・大崎連合耕地整理組合」を設立し自ら組長となり、農工銀行からの資金調達に奔走。1916年(大正5年)にようやく借入を成功させると、同年より7.4kmに及ぶ水路拡張工事に着手した。豪雨に伴う補修工事を経て1918年(大正7年)に通水、240haの開田を実現させた。その後も借入と事業拡張を繰り返し、最終的に開田面積は430haとなった。開田当初頻発した漏水等の問題も次第に落ち着いたという。しかし馬場は借入金返済に辛労した末、1922年(大正11年)7月26日に48歳で病死した。 後述する野井倉開田の完工後、1958年(昭和33年)に蓬原開田碑が建立され、馬場の長男による「幾十年 幾十万の 汗乃水」という銘文が刻まれた。
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