遊郭の構造・運営法
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料亭 稲本(2013年5月) 長寿庵(2013年5月) 中村遊郭は、東京の吉原を模した造りの廓だった。外周を幅一間の堀で囲み、四隅の道は斜めにすることで廓の外周を不等辺八角形とし、外部からでは中の様子をのぞくことが出来ないようになっていた。この堀の跡は郭北東辺などに道路として現存する他、形として残らないまでも、町境として跡を残している。ある娼家の構造を例にとると、次のようになっていた。 建物は木造二階建て、桟瓦葺。中央には坪庭が設けられていた。一階の表通りに面して玄関が中央にあり、その左右に帳場と張見世があった。その奥には仲居控え室・主人応接室・布団部屋をはさみ、若干の客室(個室)があった。そのまた奥には主人居間があり、建物の最も奥側には炊事場・集団で食事可能な広さの台所・脱衣所・風呂があった。炊事場には勝手口があり、その外に井戸が設けられていた。二階は坪庭に面して環状の廊下があり、その周囲に数部屋の客室が配置されていた。ただし一階の風呂の真上にあたる部屋は洗濯・洗浄室となっていた。先の張見世は、表から格子越しに覗ける構造になっており、客が実物の娼妓を見定められるようになっていた。またこの格子は取り外し可能になっているものもあり、かろうじて置かれた手擦り越しに娼妓が客を招く場面もあったという。張見世は大正末~昭和初期には機能していたようだが、昭和5~6年ころから店玄関付近に置かれた看板写真に代わるようになった。またアルバム形式の写真帳を使う娼家もあった。張見世の廃止は、東京の吉原等と比べると遅かったようだ。帳場のカウンターか玄関ホールの飾り台に招き猫を置くのが常だったという。客室は接客の場であると同時に、娼妓の生活の場でもあった。中村では、かつての吉原等であった「廻し」システムがなかったため、そのための部屋もなかった。客が登楼すれば、敵娼(あいかた)が各々に割り当てられた客室で一々客をもてなすシステムであった。部屋の入り口はそれぞれに趣向が凝らしてあった。くぐり戸のようなものもあれば、色ガラスを貼り合せたようなものもあった。 坪庭は、中村遊廓でのトレンドだったようで、廓内のほとんどの建物は、真上から見ると口の字やコの字状となっている。これはまた国土地理院が所有する1946年(昭和21年)当時の米軍撮影の空中写真をみても、明らかである。この坪庭に稲荷社を置いた例がある。また娼家廃業後、坪庭を通路として利用し、アパートに改造した例がある。 廓内の建物は、一軒に付き約30万円(建築当時)を費やしたといわれ、大正末当時の建築技術を最大限に発揮して建てられたものが多く、近代の文化財としての視点からも価値がある。実際、廓内の4件(長寿庵・旧松岡旅館・料亭 稲本・料理旅館 大観荘)が名古屋市都市景観重要建築物に指定されている(うち料理旅館 大観荘は2004年に、長寿庵は2014年にそれぞれ解体され指定解除)。 昭和12年当時、廓内のほとんどの娼家で、当時まだ珍しかった電話を個々に設置していた。
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