遊郭の構造・運営法とは? わかりやすく解説

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遊郭の構造・運営法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 02:56 UTC 版)

中村遊廓」の記事における「遊郭の構造・運営法」の解説

料亭 稲本2013年5月長寿庵2013年5月中村遊郭は、東京吉原模した造りの廓だった。外周を幅一間の堀で囲み四隅の道は斜めにすることで廓の外周不等八角形とし、外部からでは中の様子をのぞくことが出来ないようになっていた。この堀の跡は郭北東辺などに道路として現存する他、形として残らないでも、町境として跡を残している。ある娼家構造を例にとると、次のようになっていた。 建物木造二階建て桟瓦葺。中央には坪庭設けられていた。一階表通り面して玄関中央にあり、その左右に帳場張見世があった。その奥には仲居控え室主人応接室布団部屋をはさみ、若干客室個室)があった。そのまた奥には主人居間があり、建物の最も奥側には炊事場集団食事可能な広さ台所脱衣所風呂があった。炊事場には勝手口があり、その外に井戸設けられていた。二階坪庭面して環状廊下があり、その周囲に数部屋客室配置されていた。ただし一階風呂の真上にあたる部屋洗濯洗浄となっていた。先の張見世は、表から格子越し覗ける構造になっており、客が実物娼妓見定められるようになっていた。またこの格子取り外し可能になっているものもあり、かろうじて置かれた手擦り越し娼妓が客を招く場面もあったという。張見世大正末~昭和初期には機能してたようだが、昭和5~6年ころから玄関付近に置かれ看板写真代わるようになった。またアルバム形式写真帳を使う娼家もあった。張見世廃止は、東京吉原等と比べる遅かったようだ。帳場カウンター玄関ホール飾り台招き猫を置くのが常だったという。客室接客の場であると同時に娼妓の生活の場でもあった。中村では、かつての吉原であった廻しシステムがなかったため、そのための部屋もなかった。客が登楼すれば、敵娼あいかた)が各々割り当てられ客室一々客をもてなすシステムであった部屋入り口それぞれに趣向凝らしてあった。くぐり戸のようなものもあれば、色ガラスを貼り合せたようなものもあった。 坪庭は、中村遊廓でのトレンドだったようで、廓内のほとんどの建物は、真上から見ると口の字やコの字となっている。これはまた国土地理院所有する1946年昭和21年当時米軍撮影空中写真をみても、明らかである。この坪庭稲荷社置いた例がある。また娼家廃業後坪庭通路として利用しアパート改造した例がある。 廓内建物は、一軒付き30万円建築当時)を費やしたといわれ、大正当時建築技術最大限発揮して建てられたものが多く近代文化財として視点からも価値がある実際廓内の4件(長寿庵・旧松岡旅館料亭 稲本料理旅館 大観荘)が名古屋市都市景観重要建築物指定されている(うち料理旅館 大観荘は2004年に、長寿庵2014年それぞれ解体され指定解除)。 昭和12年当時廓内のほとんどの娼家で、当時まだ珍しかった電話個々設置していた。

※この「遊郭の構造・運営法」の解説は、「中村遊廓」の解説の一部です。
「遊郭の構造・運営法」を含む「中村遊廓」の記事については、「中村遊廓」の概要を参照ください。

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