遊郭の時代
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遊郭の起源については不明であるが、八日市が市場町であること、古くから交通の要衝であったことから、近代以前であると考えられている。当初は、市場に近い市神神社(現在の八日市本町15番4号)付近に5軒程度がみられたのみであったという。旧御代参街道がその中心を南北に縦断し、同地がまだ神崎郡浜野村であった時代の1868年(明治元年)、料亭「招福楼」(現在の八日市本町8番11号)が、延命新地の旧御代参街道沿いに創業している。当時はまだ八日市駅も開業しておらず、新地は、延命山の東側のふもとの地であると認識されていた。 1885年(明治18年)6月に滋賀県が定めた「貸座敷及娼妓営業取締規則」に「八日市村ノ内字新地、浜野村ノ内字寺ノ前」に貸座敷営業を許可し、「下等免許地」であるとした。これは、1889年(明治22年)4月1日に町村制が敷かれる以前の八日市村から浜野村へとまたがる地域に、公式に貸座敷・娼妓営業が許可されたことを示している。町制が施行され、八日市町となった後の同年11月5日に改正された同規則によれば、大字八日市字新地・大字浜野字寺ノ前のこの延命新地のほか、滋賀郡大津町字上馬場町、同町字下馬場町、同町字甚七町、同町大字神出字真町ほか、坂田郡長浜町大字南片町、蒲生郡八幡町字池田町ほか、犬上郡彦根町字袋町の合計8か所が指定・許可されていた。八日市駅が開業したのは、1898年(明治31年)7月24日であり、同年には貸座敷は30軒を数え、1910年代の大正初年には貸座敷31軒、芸妓46人になっており、同県内でも大津・彦根に次ぐ存在に発展していた。このころには新地に角力常設館の萬歳館がつくられているが、これは映画館バンザイ館(のちの八日市昭和映劇、大字浜野564番地)として、1928年(昭和3年)6月18日に改めて開館している。1915年(大正4年)4月、延命新地の貸座敷・娼妓業者が「遊廓経営ノ延命山下公園一帯設備一切」を八日市町に寄付しており、同月14日には設備の一切が町有になっている。「延命山下公園一帯」とは延命公園とその一帯、つまりこの延命新地を指す。 1929年(昭和4年)に発行された『日本遊里史』によれば、当時の延命新地は、所在地が神崎郡八日市町大字浜野であり、貸座敷35軒、娼妓30人であった。この時代には、カフェー文化が花開き、延命新地にも「弁天カフェー」が存在した。新地の最盛期は、1938年(昭和13年)8月31日に編成された飛行第3戦隊が、大字沖野ヶ原 (現在の東近江市沖野)の八日市飛行場にあった時代である。朝から営業していた遊郭は新地だけとされ、「午前中は兵隊、午後は下士官、夜は将校と憲兵」という暗黙のルールまであり、当時は県内トップの売上高に達していたという。鉄道の発達にしたがい、隣の蒲生郡や愛知郡からも客が押し寄せた。
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