近鉄球団の本拠地化
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1958年、日本生命は近鉄パールス(後の大阪近鉄バファローズ)の親会社だった近畿日本鉄道から「準本拠地として夜間だけ球場を使わせてほしい」という要望を受けた。近鉄は当時、本拠地(専用球場)の藤井寺球場にナイター設備がなかったため、ナイターの試合は大阪球場を借りて開催していた。しかし、大阪球場を所有する南海の試合日程が優先され、利用料の負担も大きいことから本球場の使用を要望し、日本生命が了承。近鉄が7000万円をかけて照明灯などナイター設備を新設し、日本生命に譲渡した。当時パ・リーグは3球団(近鉄、阪急、南海)が関西を本拠地にしていたことから、近鉄沿線である名古屋圏への本拠地移転の声もあったが、パ・リーグ総裁の決定によって3年間の本球場の使用が認められた。日本生命にとってもアマチュア専用では維持が厳しく、ナイター設備など施設の充実はアマチュア野球のためになるという判断があった。これ以降、近鉄はナイターを中心に主催試合の大部分を本球場で開催したため、野球協約上の本拠地は藤井寺球場のまま本球場が実質的な本拠地となった。 1959年2月に球場の運営会社として株式会社日本生命球場を設立。土地と建物を日本生命から借り受け、球場貸出料と広告料などで運営を賄うことになった。1960年に近鉄の名古屋移転が見送りとなり、本球場は大改修を立案。住民の反対や娯楽分野への設備投資を抑制する閣議決定を受けて一時計画は頓挫したものの、1963年4月に総工費1億2000万円をかけた改修工事が完了した。設備は一新され、新設されたボックス席480席を含む収容人数2万500人となった。近鉄が公式戦と練習をあわせて年間70日使用し、収入面ではプロ野球興行に大きく依存していたが、1973年に近鉄は藤井寺球場にナイター設備を設置して移転すると日本生命に通告した。しかし、周辺住民の反対で藤井寺球場のナイター設備の設置工事が中断したため、引き続き本球場は近鉄の主催試合に使用された。 1970年代には日本野球機構やパ・リーグ事務局がナイターの照度が不充分で選手のプレーに支障をきたすことなどを問題視し、一時は球団の本拠地を愛知県(中日(ナゴヤ)球場)や三重県など近鉄沿線の中京地区へ移転することも検討された。しかし、愛知県を保護地域とする中日ドラゴンズの独占権益が侵される恐れがあることやファンの分散化による不利益が生じる可能性など問題点が多々あったことから本拠地移転は見送られた。1975年に照度アップの工事が行われた。1979年にパ・リーグ初優勝を決めた近鉄ナインは試合が行われた阪急西宮球場から祝勝会会場となった本球場に直接戻り、ファンが見守る中でビールかけを挙行している。 また、本球場では3万人以上収容の球場での開催が義務づけられているオールスターゲームや日本シリーズが開催できないため、1979年と1980年の広島東洋カープとの日本シリーズやその前のプレーオフは大阪球場を間借りして開催した。 1984年、藤井寺球場にナイター設備が完成し、近鉄は同年のシーズンから主催試合の大部分を同球場で開催。これに伴い本球場での試合数は1984年に19試合、以降も年間10試合前後と大幅に減少した。 なお、1977年には関西学生アメリカンフットボール連盟公式戦の関西学院大学ファイターズ対京都大学ギャングスターズ戦が行われている(関京戦)。この試合は「涙の日生球場」として語り継がれることになった。本球場でアメリカンフットボールの試合が行われたのはこれが唯一である。
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