軍事産業への参入
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フランスでは1830年には7月革命、1848年に2月革命がおこり、そのたびにヨーロッパでは革命の嵐が吹き荒れたが、アルフレート・クルップは商売のことしか考えていなかった。そして、彼の発想は戦争で繁盛するなら大いに結構、というクルップ家の伝統へとつながってゆくのである。 次第にアルフレートは武器の生産に目をつけてゆく。1843年には鋼鉄製の銃、1847年には大砲をプロイセンの陸軍当局に送って売込みをかけるが、にべもなかった。それならばとアルフレートはプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に大砲を献上する。この大砲は王宮の大理石の広間に置かれ、大いにPRとなった。1851年、ロンドンの第1回万国博覧会に6ポンドの大砲を出品した。あえて万博に戦争の道具を出品したアルフレートは、見事金賞を勝ち取った。 ヴィルヘルム1世は、アルフレートが先王に大砲を献上したことからクルップへ300門もの大砲を発注した。また、かの鉄血演説を行ったオットー・フォン・ビスマルクが宰相となり、アルフレートの元を訪れた。2人は意気投合し、ドイツの近代化を強力に推し進めた。 新製鋼法を導入し、事業を順調に伸ばすアルフレートは、プロイセンだけではなく軍備強化に励む各国から手広く受注していた。その一方で、プロイセンが国内の鉄鋼業者から競争入札で大砲の発注元を決めようとしたときは「一門でもクルップ以外の鉄鋼業者が注文を取ったら、直ちに全世界に対して、彼らの欲する大砲を売り渡すであろう」と脅迫めいた内容の手紙を出している。 そんなアルフレートに対して、いつしか人々は皮肉をこめて「大砲王」と呼ぶようになった。もっとも、本人はその称号をいたく気に入っていたようである。クルップは兵器だけでなく、鉄道用品の製造に力を注いだ。特にクルップの作る継ぎ目なしの車輪は、丈夫でしかも摩擦が少ないということから年々受注が増えた。こうして建設された鉄道、そして大砲が普仏戦争をプロイセン王国の勝利に導いたのである。1867年、アルフレートはナポレオン3世が主催するパリ万国博覧会には化け物のような大きさの巨砲を出品した。 当時オランダに留学中の榎本武揚や赤松則良らはアルフレート・クルップを訪れ社長と会見している。同時に当時建造中の軍艦開陽丸に搭載する大砲を注文し、最終的に18門が搭載された。日本でもクルップの火砲を元に多数の火砲が製造され、日露戦争の時には多数のクルップ式火砲を装備していた。日本語名として「克式」と呼ばれた。中国にもクルップの火砲は供与され、ギネスブックにも載る胡里山砲台(中国語版)は日中戦争の際に日本の軍艦を砲撃したと伝えられている。築地と横浜の外国人居留地にあったドイツ系貿易商館のアーレンス商会が代理店となった。 1903年にフリードリヒ・クルップ社(ドイツ語版)(ドイツ語: Friedrich Krupp AG)を設立。 クルップ社は1900年に約45000人の労働者を抱え、社宅を提供するなどの福利厚生も行っていた。
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