軍事協力・愛国浪曲
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1940年(昭和15年)8月16日、広沢虎造映画出演問題を巡っての、浅草田島町殺傷事件は、浪曲家の伝統生活中の、最も悪質に属する部分のあらわれと見てよい。総動員体制の中、戦争協力の促進を企図し国威発揚のために「浪曲向上会」(1941年5月27日発足、斎藤瀏が会長)が結成され、多くの浪曲師や作家が動員される。愛国浪曲が情報局・大政翼賛会の肝いりで続々作られることとなる。 愛国浪曲発表大会(愛国浪曲原作集等より) 1940年11月26日-28日(3日間)明治座 1940年11月26日-29日(4日間)浅草松竹座 1940年11月28日-29日(2日間)横浜宝塚劇場 1940年12月下旬 大阪中座 body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper{margin-top:0.3em}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ul,body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ol{margin-top:0}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper--small-font{font-size:90%}長谷川伸「函館紺血碑」 - 広沢虎造#2代目 長田幹彦「涙の船唄」 - 寿々木米若 白井喬二「筑紫の博麻呂」- 東家楽燕 武田麟太郎「天下の糸平」 - 玉川勝太郎#2代目 久米正雄「血を嗣ぐもの」 - 冨士月子 藤森成吉「長英の新出発」(「傷痍」に差し替え) - 春日井梅鴬#初代 子母沢寛「十四日の月」 - 木村友衛#初代 尾崎士郎「村上六等警部」 - 酒井雲 長谷川時雨「桜ふぶき」 - 二葉百合子 浜本浩「東天紅」 - 京山幸枝 佐藤春夫「大場鎮の一夜」 - 梅中軒鴬童 倉田百三「お礼詣りする父娘」(「まごころ」に差し替え) - 宮川松安 三上於菟吉「雲に鳥無常剣」 - (演じ手無し) 菊池寛「近衛篤磨」 - 松風軒栄楽 木村毅「シンガポールの白梅」 - 東武蔵 土師清二「近江商人」 - (演じ手無し) 吉川英治「大楠公夫人」 - 吉田大和丞 富沢有為男「諏訪湖の蘆」 - 京山小円嬢#初代 竹田敏彦「少年街の勇士」 - 日吉川秋水#初代 大木惇夫「荒地」 - (演じ手無し) 愛国浪曲は、それまでとかく低俗、下品なものとされてきたことへの対抗する路線の延長線上にあり、一つの集大成でもあった。また、軍事ものを売りにしないタイプの浪曲師も総動員をかける形で開かれた。試みは概ね定着せず、しかし結果的に浪曲は、先の大戦で積極的に加担した芸能としても記憶された。 丸の内帝国劇場は、情報局に講堂として接収され、1941年(昭和16年)1月30日に愛国浪曲試聴会。1942年5月、軍用機献納浪曲大会。浪曲動員協議会、浪曲作家協会の結成を経て、浪曲向上会が情報局・NHKの後援のもとに1942年10月1日に国民浪曲賞を設定する。また1943年(昭和18年)12月30日に帝劇で「芸能従軍壮行 浪曲大会」。出演は春日井梅鴬、広沢虎造、梅中軒鴬童、寿々木米若。戦中の1943年には、浪曲師の数はピークを迎え、東京だけで約千名、全国的には3千名近くいたという。要約である。より詳細は唯二郎『実録浪曲史』 p.95-141(1940年から1945年敗戦まで)を参照のこと。1945年(昭和20年)5月、「一億憤激米英撃滅浪曲」台本発表、これらの新作の多くはNHKの国民浪曲として放送され、レコード化された。
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