赤い鳥版
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赤い鳥のリーダー後藤悦治郎らの友人が、北海道旅行の際にユースホステルで旅人が口ずさんでいたのを聴いた。友人はそれを聴いて歌を覚え、後藤に伝えた。当時のユースホステルでは旅する若者らが集まり、夕食後の「ミーティング」ではフォークソングなどを歌って親睦を深める習慣があった。そうした文化を背景に、この曲が赤い鳥のもとまで届いたのである。 歌を聴いた後藤は感銘を受け、1970年(昭和45年)6月25日に日本コロムビアからシングル『人生/赤い花白い花』としてリリースした(規格品番:Z-6-JA)。1969年(昭和44年)10月1日にリリースしたファーストシングル『お父帰れや/竹田の子守唄』に続く2枚目のシングルであったが、ファーストシングルはインディーズ・レーベル「アングラ・レコード・クラブ (URC) 」からのリリースであり、このシングルが赤い鳥にとってメジャーデビューとなった。 当初は後藤らも誰が作った歌かわからず、ラジオ番組で呼びかけて情報を集めたところ、放送を聴いていた群馬大学の学生が手紙を出して中林に連絡を取り、作者が判明した。赤い鳥のシングルには「作詞・作曲:中林ミエ」と表記されている。全盛期のフォークソング界では、優れた楽曲は人から人へと歌い継がれ、誰が作った歌かもわからないまま、あたかも「詠み人知らず」のように伝わっていくことも多く、この歌もそうした楽曲のひとつであった。 なお、赤い鳥がファーストシングルで採り上げた京都の民謡「竹田の子守唄」も、旋律の美しさから人から人へ歌い継がれて広まった楽曲で、後藤や赤い鳥のメンバーは大分県竹田市の民謡であると思っていたという。なお、シングルA面曲の「人生」は「竹田の子守唄」の旋律に山上路夫が歌詞を付けた替え歌である。 「赤い鳥 (フォークグループ)#代表曲」および「竹田の子守唄」も参照 「赤い花白い花」は、1971年(昭和46年)7月25日発売のアルバム『竹田の子守唄』(東芝EMI「Liberty」レーベル、LTP-9034)に収録された。このLPは、2013年(平成25年)4月10日にソニー・ミュージックエンタテインメントからBlu-Spec CD2仕様で再発売されている(規格品番:MHCL-30033D)。 赤い鳥は、1973年(昭和48年)5月20日発売のシングル『紙風船/赤い花白い花』(東芝EMI「Liberty」レーベル、規格品番:LTP-2854)でも再びこの曲を取り上げた。「紙風船」は同年の国鉄CMテーマ曲、グリコ「プリッツ」CMテーマ曲にも使用され、このシングルはオリコンチャート週間9位にランクインした。 1974年(昭和49年)9月に赤い鳥が解散後、メンバーの後藤と平山泰代(同年2月に後藤と結婚)は夫婦デュオの紙ふうせんを結成。紙ふうせんでも「赤い花白い花」をレパートリーとしている。また、解散後にハイ・ファイ・セットを結成した元メンバーの山本潤子も、この曲をレパートリーとしている。 後藤は「赤い花白い花」について、「コンサートではどこの会場でも知っている人が多く、一緒に歌ってくれた」「ヒットさせようというのでなく、ありのままの気持ちで作られた歌」と語っている。 なお、元の歌詞は2番までしかなく、赤い鳥版でも2番までしか歌われていない(他のカバーも2番までを歌うものが多い)。後述する芹洋子版で、芹の依頼により中林が追加した3番の歌詞以外にも、ユースホステルで発行していた歌集では3番として歌詞が掲載されているものがあった。これは若者らに歌い継がれる中で自然発生的に歌詞が付け足されていったものと思われる。
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