豊かではなかった郡上藩領とは? わかりやすく解説

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豊かではなかった郡上藩領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)

郡上一揆」の記事における「豊かではなかった郡上藩領」の解説

郡上一揆舞台となった郡上藩美濃国郡上郡越前国大野郡またがった山間部小藩であった美濃国郡上郡三方を山に囲まれており、郡上郡北東部南北吉田川流れ吉田川流域のことを明方筋、北西部南北上之保川(現在は一般的に長良川と呼ぶ)が流れ上之保流域上之保筋と呼んだ。そして吉田川上之保川の合流地点から下流郡上郡南部下川筋、郡上八幡城周辺を小駄良筋と呼んだ郡上藩全体石高元文元年7月18日1736年8月24日)の金森頼錦が襲封した時点での記録によれば38,764石余りとされ、うち郡上郡内に当たる美濃領内宝暦6年1756年)の記録では23,293となっている。 当時郡上郡内では水田による稲作畑作以外に、山間部では広く焼畑が行われヒエ、粟、大豆蕎麦などが栽培されていたが、焼畑での生産力限られたものであった江戸時代郡上一揆発生当時農民たちは郡上での農業について、郡上藩白山近く大日ヶ岳鷲ヶ岳などという山々囲まれているため、春は遅くまでが残る上に冷たく、秋は降雪早く稲作りに困難が多い上に、山間部にあるのでイノシシシカサル作物荒らすことが頻繁であり、農業による生活が苦しいと訴えた文章残っている。 延宝4年1676年)にはこれまで一石につき三升であった口米が四升に増税されることが決められたため、豊かではない郡上藩領の農民強く反発し増税取り下げ要求した当時郡上藩遠藤常春幼少であり、郡上藩内では増税派、反増税派の争い激しさ増して藩政主導権争いリンクし大混乱陥ったそのような情勢下で農民たちは一揆起こし結局喧嘩両成敗の形を取って増税派、反増税双方責任者クラス処分したという事態が発生していた。 その上に、もともと生産性高くなかった郡上郡内にも、時代変革の波はやってきていた。郡上一揆発生した江戸時代中期には商品経済発達見せ米以外養蚕タバコなどといった換金性の高い生産活動従事することが増えた。これは本業である稲作においても、鉄製農機具肥料等の購入代金を得るために現金収入を得る必要性高まっており、この結果郡上でも養蚕紙漉きなどといった労力要する現金収入手段得られる豪農と、そのような余裕が無い貧農との農村社会内の分化始まっていた。またこのような社会情勢変化に応じて郡上藩商品作物などに対す課税強化進めていた。

※この「豊かではなかった郡上藩領」の解説は、「郡上一揆」の解説の一部です。
「豊かではなかった郡上藩領」を含む「郡上一揆」の記事については、「郡上一揆」の概要を参照ください。

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