豊かではなかった郡上藩領
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「郡上一揆」の記事における「豊かではなかった郡上藩領」の解説
郡上一揆の舞台となった郡上藩は美濃国郡上郡と越前国大野郡にまたがった山間部の小藩であった。美濃国郡上郡は三方を山に囲まれており、郡上郡の北東部を南北に吉田川が流れ、吉田川流域のことを明方筋、北西部を南北に上之保川(現在は一般的に長良川と呼ぶ)が流れ、上之保川流域を上之保筋と呼んだ。そして吉田川、上之保川の合流地点から下流の郡上郡南部を下川筋、郡上八幡城周辺を小駄良筋と呼んだ。 郡上藩領全体の石高は元文元年7月18日(1736年8月24日)の金森頼錦が襲封した時点での記録によれば38,764石余りとされ、うち郡上郡内に当たる美濃領内は宝暦6年(1756年)の記録では23,293石となっている。 当時の郡上郡内では水田による稲作と畑作以外に、山間部では広く焼畑が行われヒエ、粟、大豆、蕎麦などが栽培されていたが、焼畑での生産力は限られたものであった。 江戸時代の郡上一揆発生当時に農民たちは郡上での農業について、郡上藩は白山に近く大日ヶ岳、鷲ヶ岳などという山々に囲まれているため、春は遅くまで雪が残る上に水が冷たく、秋は霜や降雪が早く、稲作りに困難が多い上に、山間部にあるのでイノシシ、シカ、サルが作物を荒らすことが頻繁であり、農業による生活が苦しいと訴えた文章が残っている。 延宝4年(1676年)にはこれまで一石につき三升であった口米が四升に増税されることが決められたため、豊かではない郡上藩領の農民は強く反発し、増税取り下げを要求した。当時の郡上藩主遠藤常春は幼少であり、郡上藩内では増税派、反増税派の争いが激しさを増して藩政の主導権争いとリンクし、大混乱に陥った。そのような情勢下で農民たちは一揆を起こし、結局、喧嘩両成敗の形を取って増税派、反増税派双方の責任者クラスを処分したという事態が発生していた。 その上に、もともと生産性が高くなかった郡上郡内にも、時代の変革の波はやってきていた。郡上一揆が発生した江戸時代の中期には商品経済が発達を見せ、米以外に養蚕やタバコなどといった換金性の高い生産活動に従事することが増えた。これは本業である稲作においても、鉄製の農機具や肥料等の購入代金を得るために現金収入を得る必要性が高まっており、この結果、郡上でも養蚕や紙漉きなどといった労力を要する現金収入手段を得られる豪農と、そのような余裕が無い貧農との農村社会内の分化が始まっていた。またこのような社会情勢の変化に応じて、郡上藩は商品作物などに対する課税強化を進めていた。
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