謎の情死「マイヤーリンク事件」とは? わかりやすく解説

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謎の情死「マイヤーリンク事件」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 16:21 UTC 版)

ルドルフ (オーストリア皇太子)」の記事における「謎の情死「マイヤーリンク事件」」の解説

1881年ルドルフベルギー王レオポルド2世次女ステファニーシュテファニー)と結婚し1883年には娘エリーザベト誕生していたが、性格の不一致深刻なもので、2人の仲は冷え切っていた。結婚以前から、彼は貴族専門娼婦女優たちとの関係があったが、特にミッツィ・カスパルは一番のお気に入り女性であった1888年末頃、ルドルフ16歳マリー・ヴェッツェラ出会った。この出会い仲介したのは、母エリーザベトお気に入りだった従姉エリーザベトの兄ルートヴィヒ一介女優貴賎結婚してもうけた娘)ラリッシュ伯爵夫人マリー・ルイーゼ英語版)だった。「つやのない麦わらのような金髪ぼさぼさで、眉毛薄く正視に耐えなかった」と口の悪いラリッシュ伯爵夫人語った皇太子妃シュテファニーの姿と比べてマリー・ヴェッツェラ小柄美しい娘であった。やがてルドルフマリー・ヴェッツェラ惹かれ教皇レオ13世宛ててステファニーとの離婚求め書簡送った教皇は「不許可」と回答したが、これはルドルフではなくローマ駐在外交官通じてフランツ・ヨーゼフ1世返書渡されたために一切洩れてしまい、父帝激し怒り呼び起こしたルドルフドイツ帝国宰相ビスマルク不信感抱いていたため、帝国ドイツ頼み政策嫌っていた。ルドルフは、ロシアフランスとの同盟構想してフランスには積極的に接近する一方秘密裡ロシアにも赴いたことがあったが、これも新聞によって暴露されてしまった。1889年1月26日激怒した父帝ルドルフ呼びつけ叱責した。しかも、翌朝フランツ・ヨーゼフ1世書簡には「今宵ドイツ大使館パーティには、プロイセン軍第一礼装出席するように」と書かれていた。父帝は、新聞暴かれ親仏親露、反独疑惑払拭するために必死だったプロイセン軍礼装を身に着けルドルフは、「この軍服は僕には耐えられないほど重い」とこぼしたその日午後ルドルフウィーン郊外プラーター狩猟地に赴き、従姉のラリッシュ伯爵夫人に「明日マリー・ヴェッツェラ連れてきてほしい。今頼れるのは彼女だけだ」と語った警察諜報員ドクトル・フローリアン・マイスナーが、警察長官のフランツ・クラウス男爵提出した報告書によると、ルドルフ最後の夜となった1889年1月28日月曜日に、彼はミッツィ・カスパル訪ねている。彼は夜中3時までミッツィの元に留まって何杯もシャンパン飲み管理人には口止め料として10グルデン与えた。そしてルドルフ別れ際に、彼女の額に十字を切った。そしてそこからマイヤーリンク赴いた。 翌28日ルドルフマリー・ヴェッツェラとともにマイヤーリンク狩猟館馬車向かった1月30日水曜日午前6時10分、彼の部屋から2発の銃声聞いた執事駆けつけた。しかし部屋内側か施錠されており、執事は斧でドア破って入った踏み込んだ先にルドルフマリーベッドの上血まみれになって死んでおり、傍ら拳銃落ちていた。はじめ、事件は「心臓発作」として報道されたが、じきに「情死」としてヨーロッパ中に伝わり様々な憶測呼んだルドルフ本当に心中したかった相手ミッツィ・カスパルで、彼女に心中持ちかけたが一笑に付されたため、仕方なくマリー死出の旅道連れ選んだという説がある。実際ルドルフは、1888年夏にメートリンクのフザーレン教会の前でミッツィに、拳銃撃ち合って死のう提案している。驚いたミッツィは、すぐにウィーン警察長クラウスにこのことを通報した。それからルドルフは、以前にも増して厳しく刑事たち監視されるようになった。またルドルフ狩猟友達のヨーゼフ・ホヨス=シュプリンツェンシュタイン伯爵出版した回想録によると、ルドルフマリー・ヴェッツェラ心中事件起こす1889年1月には、既に2人の仲は冷めきっていたという。皇太子妃シュテファニーも、自身回想録の中で「ヴェッツェラ夫人って、一体誰だったかしら? 幾人も女性の中の1人最後の夜でさえ、あの夫は例の色女の元で、あのウィーン娼婦の所で過ごしたのだわ」と書いている。 さらに、ルドルフ以前からたびたびミッツィに6グルデンもする館を贈り、さらに5万グルデンもする装身具贈っている。またルドルフ死後王宮内の彼の引き出しには「10万グルデンと書かれたミッツィ宛て封筒残されていたが、実際に中に入っていたのは3グルデンだった。ルドルフ侍従武官だったマクシミリアン・オルシーニ・ローゼンベルク伯爵記録によると、ルドルフ最後2年間には側近の者達からひどい顰蹙を買ったにもかかわらず軍隊視察旅行にさえミッツィを同伴したという。なお、ルドルフマリー・ヴェッツェラ紹介したラリッシュ伯爵夫人フランツ・ヨーゼフ1世エリーザベト怒りを買い、オーストリアから追放されてアメリカ移り住むことになった。彼女は追放され腹いせから、エリーザベト中傷することを書いたという。

※この「謎の情死「マイヤーリンク事件」」の解説は、「ルドルフ (オーストリア皇太子)」の解説の一部です。
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