謎の情死「マイヤーリンク事件」
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「ルドルフ (オーストリア皇太子)」の記事における「謎の情死「マイヤーリンク事件」」の解説
1881年、ルドルフはベルギー王レオポルド2世の次女ステファニー(シュテファニー)と結婚し、1883年には娘エリーザベトが誕生していたが、性格の不一致は深刻なもので、2人の仲は冷え切っていた。結婚以前から、彼は貴族専門の娼婦や女優たちとの関係があったが、特にミッツィ・カスパルは一番のお気に入りの女性であった。 1888年末頃、ルドルフは16歳のマリー・ヴェッツェラと出会った。この出会いを仲介したのは、母エリーザベトのお気に入りだった従姉(エリーザベトの兄ルートヴィヒが一介の女優と貴賎結婚してもうけた娘)ラリッシュ伯爵夫人マリー・ルイーゼ(英語版)だった。「つやのない麦わらのような金髪はぼさぼさで、眉毛は薄く、正視に耐えなかった」と口の悪いラリッシュ伯爵夫人が語った皇太子妃シュテファニーの姿と比べて、マリー・ヴェッツェラは小柄の美しい娘であった。やがてルドルフはマリー・ヴェッツェラに惹かれ、教皇レオ13世に宛ててステファニーとの離婚を求める書簡を送った。教皇は「不許可」と回答したが、これはルドルフにではなくローマ駐在の外交官を通じてフランツ・ヨーゼフ1世に返書が渡されたために一切が洩れてしまい、父帝の激しい怒りを呼び起こした。 ルドルフはドイツ帝国宰相ビスマルクに不信感を抱いていたため、帝国のドイツ頼みの政策を嫌っていた。ルドルフは、ロシアやフランスとの同盟を構想して、フランスには積極的に接近する一方、秘密裡にロシアにも赴いたことがあったが、これも新聞によって暴露されてしまった。1889年1月26日、激怒した父帝はルドルフを呼びつけて叱責した。しかも、翌朝のフランツ・ヨーゼフ1世の書簡には「今宵のドイツ大使館のパーティには、プロイセン軍第一礼装で出席するように」と書かれていた。父帝は、新聞に暴かれた親仏・親露、反独疑惑を払拭するために必死だった。プロイセン軍の礼装を身に着けたルドルフは、「この軍服は僕には耐えられないほど重い」とこぼした。その日の午後、ルドルフはウィーン郊外のプラーターの狩猟地に赴き、従姉のラリッシュ伯爵夫人に「明日、マリー・ヴェッツェラを連れてきてほしい。今頼れるのは彼女だけだ」と語った。警察諜報員ドクトル・フローリアン・マイスナーが、警察長官のフランツ・クラウス男爵に提出した報告書によると、ルドルフ最後の夜となった1889年1月28日月曜日に、彼はミッツィ・カスパルを訪ねている。彼は夜中の3時までミッツィの元に留まって何杯もシャンパンを飲み、管理人には口止め料として10グルデンを与えた。そしてルドルフは別れ際に、彼女の額に十字を切った。そしてそこからマイヤーリンクへ赴いた。 翌28日、ルドルフはマリー・ヴェッツェラとともにマイヤーリンクの狩猟館に馬車で向かった。1月30日水曜日午前6時10分、彼の部屋から2発の銃声を聞いた執事が駆けつけた。しかし部屋は内側から施錠されており、執事は斧でドアを破って入った。踏み込んだ先にはルドルフとマリーがベッドの上で血まみれになって死んでおり、傍らに拳銃が落ちていた。はじめ、事件は「心臓発作」として報道されたが、じきに「情死」としてヨーロッパ中に伝わり、様々な憶測を呼んだ。 ルドルフが本当に心中したかった相手はミッツィ・カスパルで、彼女に心中を持ちかけたが一笑に付されたため、仕方なくマリーを死出の旅の道連れに選んだという説がある。実際ルドルフは、1888年夏にメートリンクのフザーレン教会の前でミッツィに、拳銃で撃ち合って死のうと提案している。驚いたミッツィは、すぐにウィーンの警察長官クラウスにこのことを通報した。それからルドルフは、以前にも増して厳しく刑事たちに監視されるようになった。またルドルフの狩猟友達のヨーゼフ・ホヨス=シュプリンツェンシュタイン伯爵が出版した回想録によると、ルドルフとマリー・ヴェッツェラが心中事件を起こす1889年1月には、既に2人の仲は冷めきっていたという。皇太子妃のシュテファニーも、自身の回想録の中で「ヴェッツェラ夫人って、一体誰だったかしら? 幾人もの女性の中の1人…最後の夜でさえ、あの夫は例の色女の元で、あのウィーンの娼婦の所で過ごしたのだわ」と書いている。 さらに、ルドルフは以前からたびたびミッツィに6万グルデンもする館を贈り、さらに5万グルデンもする装身具も贈っている。またルドルフの死後、王宮内の彼の引き出しには「10万グルデン」と書かれたミッツィ宛ての封筒が残されていたが、実際に中に入っていたのは3万グルデンだった。ルドルフの侍従武官だったマクシミリアン・オルシーニ・ローゼンベルク伯爵の記録によると、ルドルフは最後の2年間には側近の者達からひどい顰蹙を買ったにもかかわらず、軍隊の視察旅行にさえミッツィを同伴したという。なお、ルドルフにマリー・ヴェッツェラを紹介したラリッシュ伯爵夫人はフランツ・ヨーゼフ1世とエリーザベトの怒りを買い、オーストリアから追放されてアメリカに移り住むことになった。彼女は追放された腹いせから、エリーザベトを中傷することを書いたという。
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