設計過程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:51 UTC 版)
当時の日本海軍の造船官、平賀譲と藤本喜久雄の間には確執があり、大和型戦艦の設計過程にも大きく影響している。この中で、平賀の意見が強まったことで大和の性能を不当に低く設定してしまったという批判が遠藤昭などからなされている。藤本の技術的革新主義が、友鶴事件、第四艦隊事件の他、溶接技術の未熟(機関製作にも溶接は重要な要素技術である)、高圧蒸気の扱いや大トルクの減速歯車技術等の未熟、ディーゼルの失敗などで否定されてしまい、造船官の権威を失墜させた以上、設計が平賀的(保守的)なものに回帰したことは大和型にはプラスに働いたという評価もある。平賀は大和型の計画と建造と平行して進んでいた「臨時艦艇性能改善調査委員会」の席上、西島亮二に対しても「艦体が折れたのは、電気溶接を無闇に使用したからだ」などと批判し、1936年1月には「船体構造電気溶接使用指針」を発行、この文書は使用箇所を構造強度の根幹に関わる部分に使用しないよう指定する内容であった。溶接推進派の造船官の一人、福田烈に対しては技術が進歩すれば溶接を使っても良い旨語っており、また、福田との議論の中で「残留応力の面から不当の判決を受けた」「終いには溶接の性質をよく理解され、溶接に対する考え方が変わられた」といった平賀自身の考え方の推移も証言されている。 また、戦艦設計は平賀一人の手で行う物ではなく、多くの技術者の手を経て膨大なマンパワーを必要とするため、平賀が細部まで設計を行ったわけでは無い。牧野茂は大和型戦艦の船体が藤本の設計した最上型重巡洋艦と似ていたことを指摘した上で、「最上の計画主任の魂が、自ら大和に宿ったようだ」と述べている。 機密保持に熱心だった反面、技術情報の収集には当事者が問題を感じている。牧野茂はH.E.Rossellの「Historical Transaction 1893-1943 "Type of Naval Ships"(1945 SNAME)を戦後40年以上経過してから再読した際、「造船設計に関してはいささか自負慢心が強く、諸外国の技術情報蒐集に真剣身を欠いたと感じる」と述懐している。
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