記録上の信濃島津氏とは? わかりやすく解説

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記録上の信濃島津氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/27 00:34 UTC 版)

信濃島津氏」の記事における「記録上の信濃島津氏」の解説

島津家文書306信濃国太田相伝系図」には、承久の乱恩賞として、島津忠久承久3年1221年5月8日、「幕府下知状」によって水内郡太田荘地頭職補任された後、鎌倉末期までの太田荘田畑三百四十町余)の荘園経営関連した一族の系図示されている。荘園領家島津氏に縁の深い摂家近衛家であった。「信濃国太田相伝系図」、嘉暦4年1329年3月の「北条高時下知状によれば幕府輪番をもって信濃国御家人諏訪大社五月会御射山祭祀の役を勤めさせており、豊後前司忠久(島津氏高祖)、大隈前司忠時(薩州2代目)彦三左衛門尉忠長(忠時孫)、弥三郎入道称阿頼祐(忠時孫)、五郎右衛門尉忠秀(越前島津氏忠綱曾孫)、左京進光忠(忠久3男忠直曾孫)らが祭祀の役を勤めていることが示されている。承元4年1210年それまで善光寺地頭であった長沼宗政解任され、窪寺氏や原氏諏訪部氏、和田氏の四氏が奉行となった記録がある。太田荘は主に島津宗家伊作家分割相続された。 南北朝時代になると、興国3年/康永元年1342年大倉郷地頭職を巡って称名寺との間に所領争い長く続いた。この時代には他の信濃国人からの侵害守護からの干渉から守るため、薩摩から太田荘土着する者が現れ長沼郷に本拠置いた島津刑部少輔そのひとりである。貞治4年/正平20年1365年島津太郎国忠は守護小笠原長基合戦至った元中4年/嘉慶元年1387年5月室町幕府から任命され守護斯波義種抵抗する長沼島津太郎村上頼国や高梨頼高、小笠原清順国人領主たちと善光寺挙兵した。平芝にあったとされる守護所攻めて麓の漆田原合戦となった至徳4年1387年斯波氏守護代である二宮氏泰は領家東福寺海蔵院意向を受け、島津氏所領である石村南郷年貢差し押さえたため、同年8月には氏泰が占拠篭城していた横山城国人領主たちが激戦の末攻め落としたこの後敗走する市河氏らを追撃して埴科郡生仁城転戦している。応永6年1399年)、信濃守となった小笠原長秀抵抗した島津国忠が小笠原方の赤沢氏櫛置氏らと対立し水内郡石和田(長野市石渡)での抗争があったとされる。これが大塔合戦前哨戦といわれている。 室町時代中期には、隣国越後守護代を務め長尾氏通じた高梨氏勢力拡大し島津氏所領圧迫し始める。長尾為景上杉定実対立激化すると、島津貞忠は井上氏須田氏らとともに上杉方にくみし、長尾氏後ろ盾とする高梨氏対立した。忠久以降島津氏一族太田荘の各郷の地頭職補任され、相伝した。このなかに長沼家と赤沼家と称する支流知られている。長沼家と赤沼家の両家は、戦国時代生き抜くため協力し赤沼家が長沼家を頼り両家とも上杉謙信臣従し、後に米沢藩仕官している。 『遊行藤沢上人御歴代系譜』によると、天文5年1536年)に亡くなった時宗遊行上人26他阿空達は、信濃島津氏出身である。同19年1550年)には「伊作後胤信州」を名乗る者が薩摩国伊作城訪れ伊作家系図見て先祖墓参をしている。

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