覆甲板
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 22:57 UTC 版)
覆甲板(オーニングデッキ)上には船体長の半分程度の長さの甲板室が設置され、甲板室両舷と後面は屋根付き遊歩廊となっていた。前部の露天部には、船体中心線上に前から順に、揚錨機、1層下の正甲板へ降りる階段の階段室、煙突同様やや後傾した前部マスト、ウインチ、前部貨物ハッチが設けられ、前部マストには荷役用デリックが設置され、前部貨物艙の荷役ができた。甲板室の煙突より前の部分が1等区画で、船首側左舷角には椅子とテーブルのほか、後壁を除く3方の窓または壁を背に長椅子ソファーを設置した社交室が設けられ、ここはイギリスでの新造時は定員外であったが、日本回航後4名の定員が付けられた。その後方には、扉を隔てて婦人用開放1等寝台室(寝台定員4名)が、またこれら2室の右舷側には同じく社交室から扉を隔てて紳士用1等開放寝台室(寝台定員8名)が設けられていた。これら寝台室では窓側に窓一つのスパンに1人掛けシート2脚が向かい合わせ設置され、夜間はナロネ21形開放1等寝台車下段同様、これら向かい合わせの2脚を1人用寝台に組み立てる構造で、この部分には上段は設けられなかった。一方壁側には2人掛けソファーが壁を背に設置され、夜間は背ずりを引き上げて2段寝台とした。これら二つの開放寝台室の出入口扉は後方にもあり、両舷の1等出入口につながる広間に面していた。この両寝台室の間には幅約1.3mの空間が設けられ、最上船橋天窓からこの空間を経由して、両寝台室直下、正甲板の高級船員食堂への通風採光を図られ、また両寝台室のこの空間に面する壁にはガラスパネルがはめられていた。 広間の右舷側には1等配膳室が、左舷側には1等洗面所が配置され、1等洗面所の前方に隣接して婦人用トイレも設置されていたが、ここは婦人用開放1等寝台室内からしか出入できない構造であった。この広間中央前方の紳士用・婦人用1等開放寝台室の間には船体中心線上を前方に向け、1層下の正甲板へ降りる階段が設置されていた。この広間の後方両舷には、それぞれ1室ずつ定員2名の1等個室寝台室が設けられ、その間の船体中心線上の廊下を後ろへ進むと1等食堂であった。この食堂では天井が全て約90cm持ち上げられた造りで、持ち上げ部分の両側面にはかもめ模様のステンドグラスを固定した窓を3面ずつ設け、この窓は1層上の端艇甲板面から上側に突出した部分にあり、採光は良好であった。更にその天井には花模様の焼付ガラス入り天窓が設けられ、食堂はゆったりとした明るい空間となっていた。食堂の両舷窓際には窓を背に長椅子ソファーが設置され、それらの前に設置されたテーブルをはさんで椅子も配置され、同時に16名が食事できた。1等食堂の後ろはボイラー室通気囲壁と煙突囲壁があり、覆甲板上にはここより後方へ続く室内通路はなかった。 煙突囲壁より後ろは2等区画で、新造時は天窓付き2等食堂であったが、当時の日本の実情に合わせて、日本へ回航後、定員32名の畳敷き2等雑居室に改装された。この2等雑居室には両舷の出入口と後ろに隣接する寝台室との間に扉があった。2等雑居室より後方は船体中心線上に長さ約4.5m、幅約3mの機関室囲壁があり、その両側をそれぞれ開放2段式の2等寝台室とし、両室とも前後方向約8mの外側壁に沿って2段寝台を4セット設置し、内側壁沿いには機関室囲壁後端から1セット設置し両舷合計寝台定員20名とした。両寝台室は後方にも出入口があり、甲板室後端の出入口スペースに通じていた。この両寝台室の間の船体中心線上には前方へ向け、正甲板へ降りる階段が設けられていた。甲板室の両舷側は屋根付き遊歩廊となっており、このうち左舷遊歩廊天井には、最上船橋から機関室への伝令器のワイヤーと伝声管が通り、2等寝台室の機関室囲壁から機関室内へ引き込まれていた。甲板室船尾側の露天部には、船体中心線上、前から順に、後部貨物ハッチ、ウインチ、やや後傾した後部マストが設置され、後部マストにも荷役用デリックが設置され、後部貨物艙の荷役ができた。その後ろには階段室があり、正甲板後部の3等船室船尾寄りの部位へ前方に向けて降りる階段があった。その後ろ、船尾の舵取機室直上には、非常用の汽力ならびに手動での操舵装置と磁気コンパスが設置されていた。また、後部マストの左舷側には舷梯が装備され、1、2等旅客は乗下船時これを使って小蒸気船に乗り移った。その船尾側両舷には端艇が1隻ずつ懸架されていた。
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