西工区
西工区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 03:23 UTC 版)
西工区は熊谷組が請け負い、トンネル出口側の38 km690 mから34 km711 mまでの3,979 mを掘削した。その1 (1,600 m)、その2 (1,000 m)、その3 (490 m)、その4 (889 m)の4つの工事に分割されて施工されている。 1973年(昭和48年)12月17日に出口の坑口から着手した。出口部330 mは駅の一部をトンネル内に取り込む計画のため複線断面とし、上部半断面先進工法を用いてスムーズに施工された。単線断面区間ではショートベンチ工法を採用して単線馬蹄形1号型断面で順調に工事が続けられた。その3工事の後半から地山に膨張性が現れ、またガスの湧出が見られるようになって防爆型の設備を使用する必要が出てきた。しかしその1からその3の合計3,090 m(図中のGブロック)は平均月進79.2 mを達成した。 1977年(昭和52年)10月1日から西工区その4工事に着手したが、地質が急激に悪化して難航するようになった。このため吹付コンクリートとロックボルトを採用した新オーストリアトンネル工法 (NATM) が導入された。さらに地質の悪化をきたしたため35 km380 m地点から断面を単線馬蹄形から円形に変更した。1978年(昭和53年)4月には35 km348 m付近において切羽が崩壊する事故が発生し、復旧に3か月を要した。こうしたこともあり、それまで上半部と下半部の2段に分けて工事する2段ベンチであったものを、上中下に分ける3段ベンチに切り替えた。側壁の押し出しや路盤の盤膨れが激しく、縫い返し(一度掘った区間の掘り直し)が必要になる区間もあった。バックホウを用いた機械掘りを断念して、手掘りに切り替えなければならない区間もあり、また卵型断面の頂設導坑を先行させてそこから本坑を切り広げていく頂設導坑先進工法なども実施された。 北越北線の工事は1980年度(昭和55年度)の日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)施行により凍結されることになった。トンネルに関しては、掘削中の切羽の閉塞工事や保安対策などの必要性から部分的に工事が継続され、鍋立山トンネルについては1982年(昭和57年)3月に工事が中断された。しかし西工区についていえば、中工区側と1981年度(昭和56年度)中に貫通したこともあり、1982年(昭和57年)3月25日に工事凍結の影響を受けることなくほぼ完成に漕ぎ着けた。ただし19 mについては導坑のみで、本坑断面への切り広げ工事が完了していなかった。この889 mの難工事区間(図中のFブロック)は平均月進20.2 mとなった。
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