西シベリアの中心
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:15 UTC 版)
17世紀にコサックを先頭にロシア人は西シベリアからオホーツク海沿岸にまで探検をおこない、その間の地域をロシア領へと組みこんでいった。イシム川およびイルティシュ川沿いの辺境地帯を、南のステップ地帯に住むキルギス人から守るため、1716年にオミ川右岸にオムスクの砦(クレムリ)が建設された。当初木造であったオムスク砦は18世紀後半に強固なレンガ造りへと完築された。現在、クレムリには建設当時のトボリスク門と修復されたタラ門が残っており、クレムリ内部にはドイツ人の建てたルーテル派教会、武器庫、軍の刑務所、司令官の家などが残る。 19世紀から20世紀初頭にかけ、オムスクには西シベリア総督(後にステップ総督)がおり、西シベリア地区およびステップ地区(カザフスタン)の行政中心地となっていた。ロシア正教会のみならず様々なキリスト教宗派の聖堂や教会が建っていたほか、モスク、シナゴーグなども建ち、総督の官邸や軍学校なども設けられた。しかし中央アジアがロシア帝国の支配下となって国境がはるか遠くに移り、軍事的重要性が失われると、オムスクは活気のない田舎町へと転落してゆく。19世紀半ばには流刑地となりフョードル・ドストエフスキーらもこの街に流されていた。 オムスクに活気が戻ったのは1890年代にシベリア鉄道の建設が始まり、1896年にオムスク駅が開業したことがきっかけで、イルティシュ川・オビ川水運と鉄道の連絡地となるオムスクに多数の商人や投資が集まり始めた。商社や会社が軒を連ね、中心部には華やかに装飾された建物が次々と建ち、人や荷車や蒸気船が行き交い、通信回線が築かれ、娯楽も盛んになり始めた。イギリス、ドイツ国、オランダ、日本など各国の領事館や会社もオムスクに進出した。1910年にはシベリア農業・産業博覧会が開かれ、豪華なパビリオン群や噴水などが建設され、オムスクは繁栄の絶頂を迎えた。博覧会の建物は残っていないが、当時建設された豪華な建築物は今も残り、歴史あるシベリアの都市の香りを残しており、他の町とは異なるオムスクの見どころの一つになっている。 極地探検家であり軍の英雄でもあったアレクサンドル・コルチャークはロシア革命に対抗して白軍を率い、1918年にはオムスクに反革命政府(臨時シベリア政府、次いで臨時全ロシア政府)を樹立した。「臨時全ロシア政府」(沿海州共和国とも呼ばれる)はオムスクを首都とし、チェコ軍団により警備された中央銀行には帝室の所有していた大量の金塊が備蓄されていた。しかし、オムスクの軍は赤軍の攻撃の前に劣勢となり、1919年11月にオムスクが陥落し、コルチャーク政権は崩壊へと追い込まれた。
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