製作依頼と受容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 02:07 UTC 版)
この絵は、エドワード・ホーナー・コーツ(Edward Hornor Coates)によって1884年に依頼を受けたが、彼はフィラデルフィアのビジネスマンで、ペンシルヴェニア美術アカデミーの教育の委員会委員長(the Committee on Instruction at the Pennsylvania Academy of the Fine Arts)あったが、そこでエイキンズは教えた。 コーツは、エイキンズに800ドル(現在の貨幣価値で10,700ドル)を支払う意図であったが、これは当時、エイキンズに提示された最高の手数料であった。 コーツは絵をペンシルヴェニア美術アカデミーの展示品にする意図であって、そしてこれは1885年の秋にアカデミーの展覧会で展示された。しかしながら、コーツは、これをエイキンズの全作品を代表するものでないとして拒否した。 1885年11月27日付けのエイキンズ宛ての手紙で、コーツは論じている: ...あなたが思い出されますように、わたしの主なる考えのひとつは、あなたから、いつかアカデミーのコレクションの一部となる「かもしれない」(might)絵をいただくことでした。プレゼントのカンバスは、わたしにとって多くの点で感嘆すべきものですが、しかしお持ちの絵のなかにはより代表的なものもあるとわたしは信じたいと思っていて、そしてあるいはわたしが考えている目的により受入れられるかもしれないということを提案させていただきます。だからといってわたしがプレゼント作品を過小評価しているなどとはお思いになってはいけません - それは事実ではありません。 なぜコーツがこの絵を購入することができなかったかその理由は知られていない。しかしながら、コーツがこの作品は入手するにはあまりに異論が多すぎると感じたということはありそうにおもわれる。 コーツは、エイキンズのアカデミーの委員長として、エイキンズの作品の題材には馴染み深かったであろうし、そして絵のなかのヌードに不意打ちをくらうとかショックを受けるとかいうことはありそうにない。 というよりもむしろ、コーツが絵のなかの男の大部分の身元を確認したであろうことは、かくじつであるようにおもわれるが、これはひとりをのぞく全員がアカデミーのエイキンズの学生であったからである。 彼は、絵に描かれた地点にもなじみ深かったことはうたがいないが、、これはハバフォード大学からわずか半マイル(800メートル)であって、そこでコーツは学部在学生として研究していたからである。 教授とその学生らの裸で一緒にいる描写があればそれはアカデミーの理事らにとって微妙な題材であったろうし、モデルになることはわいせつであると見なされていたので彼らはエイキンズがアカデミーの学生をモデルとして用いることを禁止したコーツは、『深みの水泳』を、エイキンズの「より議論の余地の少ない、ジャンルの場面」("less controversial genre scene")『哀愁の唄』(The Pathetic Song)と交換することをえらび、そしてエイキンズに製作依頼手数料として800ドルを支払った。 1886年2月9日、エイキンズは、女子学生が居るクラスで男性モデルの腰布を取り除いたためにアカデミーを辞することを強いられた。 エイキンズは、理由を説明した、2月15日付けのコーツ宛ての書簡で、自分が辞することの理由を説明して、自分の美術作品における裸体の問題を取り扱った: すくなくともわたしの人物らは、頭部や手のついた衣服のかたまりではなく、大部分の絵が示している力強い生きた肉体により酷似しています。あなたは、このように研究に費やした人生の終端に、絵画制作は、わたしのばあいは、すこぶる真剣な研究であることは想像することはすくなくともおできになる。わたしは、すべての人物絵画制作の最大の敵である、いつわりの慎みふかさにはほとんどがまんできないということです。わたしは、「自然の女神」(Nature)の諸作品のうちで最も美しいものを、裸の人物を見ることは不適当でないと考える。もし不適当があるならば、そうならばそういう不適当はどこからはじまるのでしょううか?裸の人物の絵を、彫像を見ることは間違っているでしょうか?最後の世代のイングランドの淑女のみなさまはそのように考え、そして彫像画廊を避けたが、しかしもはやそのようなことはしていない。それともこれは性の問題だろうか?男は、男に見られるために男の彫像だけをつくるべきであって、いっぽう女は女のみに見られるために女の彫像をつくるべきなのであろうか?男性画家は雄ウマと雄ウシを、ローザ・ボヌールのような女性画家は雌ウマと雌ウシを描くべきなのであろうか?解剖室のなかの哀れな老いた男性の身体は、「ミス・お上品ぶり」(Miss Prudery)が道楽半分に手を出すまえに、めった切りにされなければならないのだろうか?...そういう侮辱は、わたしを怒らせる。だれか、そういう愚行がどういう軽蔑すべき矛盾にはいるかわかることができないひとがいるのだろうか?そしてそれらはどのように危険なのであろうか? わたしの心は潔白であり、そしてわたしの苦しみは過ぎ去っている。
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