製作体制など
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今作の制作にはタツノコプロの本社スタッフは関わっておらず、当時制作デスクの一人だった石川光久がフリー・プロデューサーとして設立した竜の子制作分室が担当している。当時赤字続きで優秀なスタッフがどんどん辞めていくタツノコプロの状況に嫌気が差していた石川は、会社が無難に作ろうとしていた『ジリオン』を凄いものにして会社を見返そうと一念発起した。 そのためには自分が全責任を負う形にしなければならないと考えた石川は、まず親を説得し東京・八王子で農家を営む実家の土地家屋を抵当に入れ制作資金を捻出。そして自らいいと思ったり、仕事仲間から推薦された会社やスタッフを口説き落として回ったという。これらの下準備をわずか1週間で終わらせ、制作を任せてくれるように経営陣と営業に直談判。当初会社は28歳の石川にできる訳がないと拒んでいたが、紆余曲折の末、石川に『ジリオン』の制作が一任されたという。 なお1話毎の制作費は580万円と、当時の平均的な1話分の制作予算1000万を大幅に下回っていた。全31話という当時の作品としては比較的短いスパンといえど、この低予算でクオリティを保ち続けたのは石川の手腕とスタッフの熱意によるところが大きいといえよう。 その後竜の子制作分室は、キャラクターデザインを担当した後藤隆幸の作画スタジオ「鐘夢(チャイム)」と合併し、有限会社アイジータツノコ(後のProduction I.G)として独立。OVA版『歌姫夜曲』はアイジータツノコ作品として制作された。そのため、本作はタツノコプロ作品であるが、Production I.Gの事実上のデビュー作である。 なお、石川光久自身は、竜の子制作分室の制作ではなく、本当は京都アニメーションの制作だと明かしている。かねてからタツノコプロ作品に動画や仕上げで参加していた京都アニメーションの姿勢を評価していた石川は、ジリオンの制作をある程度京都アニメーションに任せたという。 後にProduction I.G作品『攻殻機動隊』などを通じて世界に知られることになる沖浦啓之や黄瀬和哉などの現在では一線級として名高いアニメーターが本作には多数参加しており、彼らの初期の作風を知ることができる。沖浦と黄瀬は、当時『蒼き流星SPTレイズナー』の作画を担当していたアニメアールの主力原画マンで、『レイズナー』の終了に伴って本作にスライドし、アニメアール班・スタジオ・ムー班の外注スタッフとして作画監督を担当したという。特に沖浦の参加は石川のたっての願いで、オープニングアニメを担当したなかむらたかしからの「任せられるのは沖浦君しかいない」とのメッセージを携えて直々に口説いた。 また、数話のみだが、押井守もタツノコプロ時代の同僚の西久保の依頼により、「丸輪零」という変名で本作に参加しているという。押井守の劇場アニメ作品の制作をProduction I.Gが手掛けるようになったのは、本作が縁となっている。
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