藩校明倫堂・明倫中学校・明倫高等学校(男子校)
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1749年(寛延2年)11月15日 - 徳川宗勝、「学問所」を創設する。 1783年(天明3年)5月1日 - 徳川宗睦、「明倫堂」を創設し細井平洲を初代督学(校長)とする。 1869年(明治2年) - 明倫堂の呼称を改め、単に「学校」と称する。 1871年(明治4年)10月10日 - 明倫堂聖堂が売却される。 1889年(明治22年)- 「武揚学校」が開校(詳細不明)。 1899年(明治32年)11月20日 - 私立明倫中学校の設立が認可される。初代校主は徳川義礼。 1900年(明治33年)4月1日 - 「私立明倫中学校」が開校。初代校長は海部昂蔵。修業年限を5年、入学資格を12歳以上の高等小学校2年修了者とする。 1908年(明治41年)4月1日 - 小学校令の改正により、入学資格を12歳以上の尋常小学校(6年)卒業者とする(尋常小学校の課程が2年延長されたため)。 1919年(大正8年)2月21日 - 愛知県へ移管され、「愛知県立明倫中学校」と改称。 1922年(大正11年)5月1日 - 「愛知県明倫中学校」に改称(「立」が除かれる)。 1921年(大正10年)8月 - 第7回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園大会の前身)に出場。 1934年(昭和9年)4月1日 - 夜間中学校(夜間定時制の前身)を設置。 1941年(昭和16年)4月1日 - 国民学校令の施行により、入学資格を12歳以上の国民学校初等科修了者とする。 1943年(昭和18年)4月1日 - 中等学校令の施行により、この時の入学生から修業年限を従来の5年から4年に短縮する。 1945年(昭和20年)3月 - 5年生(1940年(昭和15年)入学生)と4年生(1941年(昭和16年)入学生)の合同卒業式を挙行。教育ニ関スル戦時非常措置方策により、修業年限の短縮が前倒しされ、1941年(昭和16年)以降に入学した生徒にも修業年限4年が適用されたため。 4月1日 - 戦時教育令により、昭和20年度の授業が(1年間)停止される。後に戦況の更なる悪化で、無期限での授業停止が命じられる。ただし勤労動員は継続。 9月 - 終戦により、教育二関スル戦時非常措置方策や戦時教育令等が廃止され、平時授業が再開されることになる。 1946年(昭和21年)4月1日 - 修業年限が5年に戻る(4年修了時点で卒業することもできた)。学制改革を1年後に控え、この時の入学生が旧制中学校最後の入学生となる。 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革が行われる(旧制中学校1~3年を廃止し、新制中学校1~3年を設置)。旧制中学校の募集を停止。 新制中学校を併設(以下:併設中学校)し、旧制中学校1・2年修了者を新制中学校2・3年生として収容。 併設中学校は経過措置としてあくまで暫定的に設置されたため、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみの中学校であった。 旧制中学校3・4年修了者はそのまま在籍し、4・5年生となった(4年修了時点で卒業することもできた)。 1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革が行われる(旧制中学校4・5年を廃止し、新制高等学校1~3年を設置)。旧制中学校が廃止され、新制高等学校「愛知県立明倫高等学校」(男子校)が発足。旧制中学校卒業生(5年修了者)を新制高校3年生、旧制中学校4年修了者を新制高校2年生、併設中学校卒業生(3年修了者)を新制高校1年生として収容。 併設中学校は新制高校に継承され(名称:愛知県立明倫高等学校併設中学校)、在校生が1946年(昭和21年)に旧制中学校へ最後に入学した3年生のみとなる。
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