蓮池村・蓮池町
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この間、旧蓮池藩領は大区小区制(明治5年・1872年)のもとで「第10大区第1小区」となった。旧蓮池城と城下町周辺では、城館(郭内)と城原町・神埼町をあわせた「蓮池村」、蓮池本町と魚町・西小路をあわせた「東西村」が編成され、そのほか旧領は「見島村」「小松村」「古賀村」がおかれた。 歴史的に、蓮池城の所在地は佐賀郡に属していたのだが、旧蓮池藩の領地は隣の神埼郡に多く分布していた。そのため明治17年(1884年)には、旧蓮池城一帯も神埼郡に所管が移された(郡区町村編制法参照。)。その後、明治22年(1889年)に町村制が敷かれると、全域が神埼郡蓮池村となった。このときに蓮池村の大字として、「蓮池」(旧蓮池村・旧東西村)、「見島」(旧見島村)、「小松」(旧小松村)、「古賀」(旧古賀村)が設けられた。明治末期の明治43年(1910年)の記録では、当時の蓮池村は775戸、人口5409人となっている。 大正3年(1914年)からは電灯の整備が始まった。村の経済は農業が主体で、米、ビール用の麦、大豆、玉ねぎなどが主な農産物だった。蒲田津では魚を原料とする肥料の生産も盛んに行われていた。佐賀市中心部へ通じる街道(蓮池往還)に沿って商店や宿、法務局、郵便局、駐在所が立ち並んでおり、商業では蓮池魚町がサツマイモの取引地として知られていた。蒲田津は年末になると五島列島から下関に至る各地の商人が集まり、海産物や肥料、木炭などの取引が行われて賑わった。交通・輸送は佐賀江の水運が主力で、蓮池魚町と蒲田津に船着き場が設けられていた。最後の蓮池藩主で明治初期に蓮池県知事を務めた鍋島直紀は、蓮池県が伊万里県に統合されて知事職を免ぜられた際に、蒲田津から船で東京へ旅立っている。 大正12年(1923年)には、村内に鉄道(肥筑軌道)が開通した。この路線は佐賀駅と久留米を結ぶ計画で設立され、その一部分として蓮池村の中心部付近の約6.6 km区間が開業したものである。村内には、蓮池、蓮池公園、小松、蒲田津、小鹿に停車場ができ、隣の崎村が終点となっていた。しかしこの路線はまもなく不振に陥り、昭和9年(1934年)に廃業してしまった。現在でも沿線の川底に柱脚が遺構として残っている。 人口の変遷和暦 西暦 世帯数 人口 出典 明治43 1910 775 5409 大正11 1922 748 4040 昭和01 1926 762 4244 昭和10 1935 755 4096 昭和30 1955 822 4479 平成07 1995 652 2230 平成19 2007 675 1925 平成27 2015 640 1688 昭和10年(1935年)に蓮池村が町制を施行し、蓮池町(はすいけまち)となった。当時の町の規模は755世帯・4096人となっている。 蓮池町の時代には、農業団体の組織化や学校の整備が行われた。昭和30年(1955年)には町営の簡易水道が整備された。
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