葛川明王院参籠札
主名称: | 葛川明王院参籠札 |
指定番号: | 62 |
枝番: | 0 |
指定年月日: | 1991.06.21(平成3.06.21) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 歴史資料 |
ト書: | |
員数: | 501枚 |
時代区分: | 鎌倉~江戸 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 葛川明王院は天台修験道の道場であり、平安時代後期にはすでに行場として著名であった。参籠の様子が具体的にわかるのは、鎌倉時代末以降のことであるが、行者は六月の蓮華会と十月の法華会に七日間参籠し、その間に自ら参籠札に日付、名前、参籠回数を書くことになっていた。参籠札を納めるのは、霊場に籠もり修業を積んだことを示すものであり、参籠回数の多いほど験力が授かるものと考えられていた。 現在、明王院に残る参籠札は鎌倉時代から江戸時代に至るものが計五〇一枚残されている。鎌倉時代初期元久元年の参籠札は高さ三九一センチという巨大なものでこの一本だけ特に古い。頂部は腐食して不明だが、葛川明王院の彩色絵図に明王堂の周囲に林立して描かれているものに当たると見られる。図から見ると頂部は五輪塔形で、直接地面に立てている。 次に古い参籠札は元弘元年(一三三一)のものである。これは高さ一メートル程と小型になり、頂部の五輪塔形はあるが、地面に立てるのではなく、何かに立てかけるか、釘で板壁等に打ち付けたのであろう。このほかに板碑形の参籠札もあり、五輪塔形を持つ参籠札が南北朝時代までで姿を消すのに対し、その後は全て板碑形となる。この板碑形も時代が降るに従い、表面の凹凸が少なくなって平板になり、江戸時代の初めには板状になり、やがて消滅する。替わって棟札や祈祷札と同じ形をした参籠札が現われ、江戸時代はこの形態が全盛となる。室町時代には俗人も多く参籠札を納めており、准三宮道義(足利義満)、将軍足利義尚とその母日野冨子、近江守護六角高頼等の参籠札も残されている。 参籠札の類がこのように多数残っているのは、他にほとんど例がない。中世から近世にかけての霊場信仰とそこでの参籠の実態を示す資料として価値が高い。 |
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