若年期と第一次世界大戦、戦間期
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「アルベルト・フォン・デア・ゴルツ」の記事における「若年期と第一次世界大戦、戦間期」の解説
1893年、アルベルト・フォン・デア・ゴルツは西プロイセン・ヴィルジッツ地区(ドイツ語版) Heinrichsfeldeハインリヒスフェルデ(英語版)(現在はポーランド領)にて、父ハインリヒ・アルブレヒト・グラーフ・フォン・デア・ゴルツ(Heinrich Ernst Albrecht Graf von der Goltz)と母エルザ・フォン・ボルコフスキー(Else von Borkowski)の間に生を受けた。フォン・デア・ゴルツ家は古くから続く貴族の家系で、父ハインリヒも地元の名士として知られていた。アルベルトには4歳年上の姉、エリザベート・エミー・ヴァンダ・ハリエット・グレーフィン・フォン・デア・ゴルツ(Elisabeth Emmy Wanda Harriet Gräfin von der Goltz)がいた。フォン・デア・ゴルツ家の家督は、少なくとも1427年から代々受け継がれており、アルベルトも父の死後、プロイセン様式の邸宅2箇所を含む全財産を相続した。ただし片方の邸宅は1922年に火災で焼失している。1885年国勢調査の記録によれば、フォン・デア・ゴルツ家はこれらの財産に加えて蒸留所やレンガ工場も所有し、251名の労働者を雇用していたという。 1913年、20歳になったアルベルト・フォン・デア・ゴルツは陸軍に入隊し、第1ブランデンブルク第2竜騎兵連隊(1. Brandenburgische Dragoner-Regiment Nr. 2)に配属された。同連隊は1689年に精鋭部隊として結成された部隊で、彼の貴族たる身分を鑑みての配属であった。また姉エリザベートの夫、アレクサンダー・グラーフ・フォン・シュリーフェン(Alexander Graf von Schlieffen)が同連隊に勤務する士官だった為、彼がデア・ゴルツに候補生(Fahnenjunker)の身分を与えたのだとも言われている。1914年、第一次世界大戦が始まる頃、デア・ゴルツは少尉に昇進する。彼は最前線で戦い、二級・一級鉄十字章を受章した。なおフォン・シュリーフェンは1918年9月19日にグゾークール(英語版)近くで起こった戦闘の中で戦死している。 休戦後、デア・ゴルツは軍を除隊し、また1919年には結婚して家へと戻っている。戦後、ドイツ政府はヴェルサイユ条約に従い領土の一部をポーランドに割譲したが、新国境より6マイルほど外側にあったハインリヒスフェルデもポーランド領に編入されてしまった。この頃、デア・ゴルツ家はドイツ人の存在感の維持に奔走していた。例えばデア・ゴルツ自身が1920年から1928年までの間に6人の子供をもうけたように、デア・ゴルツ家を始めとする有力なドイツ人一族はドイツ人人口の増加を奨励したのである。また、デア・ゴルツは私財を投じてドイツ人・ポーランド人双方の子供を教える学校も設立している。 その後、彼は国家社会主義ドイツ労働者党(NASDAP, ナチ党)の影響下にあったポーランドドイツ青年党(ドイツ語版)(Jungdeutsche Partei in Polen, JdP)の地区支部議長に選出されている。やがてポーランドにおける反独感情が高まるとポメラニアをはじめとする旧ドイツ帝国領でドイツ人に対する圧力が高まり、 奉仕所の閉鎖やポーランド当局による資産没収が決定するとアルベルトはこれに対する抗議を行っている。1939年2月17日、彼の行動を不満に思うポーランド人の群衆およそ250名がデア・ゴルツ家を襲撃して略奪を行った。この折、アルベルト自身も侵入者らに直接脅迫を受けている。警察は略奪が収束するまで到着せず、その後の沈静化のみ行った。8月、ナチス・ドイツによるポーランド侵略の噂が囁かれる中、デア・ゴルツは陸軍に復帰するべくハインリヒスフェルデを離れた。その後、彼がフライコールを率いて国境を超えてくるのではないかという噂がハインリヒスフェルデで広まり、現地の反独感情を一層と刺激した。ただし、デア・ゴルツ自身は後に娘から教えられるまでこの噂を知らなかった。
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