若年期と活動後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/13 14:03 UTC 版)
「ジュリエット・グレコ」の記事における「若年期と活動後」の解説
コルシカ島出身の父と、レジスタンス活動家の母との間に生まれる。ジュリエットは母方の祖父母に育てられるが、自身もレジスタンス活動に巻き込まれゲシュタポにより、パリ近郊のフレンヌ監獄の収容所に、母と姉はドイツのラーフェンスブリュック強制収容所に入れられた。若年だったため早期に釈放され、エレーヌ・デュック (fr ) が住むサン=シュルピス教会近くのパリ6区セルヴァンドニ通り (fr) 20番地へやってきた。そこで寄留することになり、家にあったあり合わせの男物の服を着て、エレーヌの友人アリス・サプリッチ (fr) から靴をあたえられたりしたが、いわば“サンジェルマンスタイル”をこの時に創り出した。 ジュリエットは、たちまち戦後フランスのボヘミアンのスターに躍り出た。“サン=ジェルマン=デ=プレのミューズ”、“グレコ”あるいは“ラ・グレコ”などと呼ばれた。黒い長い髪をなびかせ、黒ずくめの衣装で歌うのがトレードマークで、彼女はジャン・ポール・サルトルやボリス・ヴィアンらアーティストのインスピレーションを刺激し、彼らから曲の提供を受けるなどして、一線で活躍した。ジャン・コクトーが映画『オルフェ』に起用した。『パリの空の下』のカバーや、また『枯葉』はバレー曲、映画音楽などとして作曲され、シャンソンとして歌詞がつき、その後ジュリエットの歌で流行り、マイルス・デイヴィスもセッションの2曲目としてよく演奏した。 以後、世界的にも最高峰クラスのシャンソン歌手と称えられ、近年までレコーディングした曲は500曲を超えている。 女優としても活動し、特に1950年代から1960年代の間には数多くの映画に出演している。日本には通算22回来日し、その間 日本にもシャンソン・ブームをもたらした。 2015年4月、現役は続行するものの、ステージからの引退を表明した。これまでの長いキャリアの上で応援をしてくれた全てのリスナーへ、感謝を込めて贈るベスト・アルバム『メルシー』を引っさげ、2016年に最後のコンサートツアーを実施。 2020年9月23日、老衰により93歳で死去。
※この「若年期と活動後」の解説は、「ジュリエット・グレコ」の解説の一部です。
「若年期と活動後」を含む「ジュリエット・グレコ」の記事については、「ジュリエット・グレコ」の概要を参照ください。
- 若年期と活動後のページへのリンク