自然災害の猛威
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/22 07:58 UTC 版)
ダム本体および発電所の工事は1961年(昭和36年)より開始された。新冠川本流のほか導水元である沙流川水系の3河川から水を運ぶ導水トンネルも建設しなければならないため、工事現場は広範囲に及んだ。いずれも厳寒期には氷点下20度以下に達する極寒の地であり、現地には作業員宿舎があっても木造のバラックに近い宿舎で不便な生活の中工事は進められた。厳しい環境の中、ソフトボールや麻雀、冬季はスケートリンクを造るなどレクリエーションで英気を養いながら作業員は難工事に当たっていた。しかし本工事開始後最も悩まされたのが自然災害であり、夏季の集中豪雨による洪水や冬季から春季にかけての雪崩、さらに落石や転落事故などが度重なり、労働災害による殉職者は増えていった。 特に凄惨だったのが1961年4月5日に発生した雪崩事故である。事故は奥新冠発電所に沙流川水系からの水を導水する全長24キロメートルの長大なトンネルの最後の中継地点、発電所下流で新冠川に合流する支流・プイラルベツ川の取水設備工事現場付近で起こった。日高山脈は豪雪地帯であり積雪も数メートルにおよぶことが一般的であるが、この年は春先に温暖な日が続き、雪崩の危険が高い状態であった。そこに4月3日より大雨が降って積雪は一層緩んだ状態となり、工区を担当する大成建設と佐藤工業は厳重な警戒に当たっていた。しかし4月5日午前5時45分ごろ、広範囲にわたり表層雪崩が発生し、作業員宿舎は一瞬にして倒壊。新冠町の消防団や鹿島建設などダム工事に従事する他の建設会社作業員などが救助に当たったが、大成建設と佐藤工業の作業員34名が死亡し、11名が重軽傷を負った。雪崩発生時は早朝で作業員たちは就寝中だったため、避難する間もなく雪崩の下敷きになったことが被害が大きくなった一因であった。北海道警察や浦河労働基準監督署などの合同現場検証が行われたが、「事前予知が到底困難な自然災害」との結論に至った。工事用道路も雪崩に埋まり復旧に1か月を費やしたほか、雪崩事故を目の当たりにした労務者が集団で離散し、工事の完全再開には2か月を要した。 奥新冠ダム・発電所工事では1959年から1963年(昭和38年)までの4年にわたる工事期間内に10回の自然災害が襲い、その復旧に全工事期間の16 - 25パーセントを費やした。災害復旧の合間に本工事を進めるような状態であったと当時従事した北海道電力の社員は語っている。自然災害のほかにも雨による崩落で通信線や電話線などが寸断され、電話の不通や停電にも悩まされた。ダムと発電所は1963年8月に完成し、運転を開始したが、この難工事により24名が労働災害で、34名が雪崩災害で殉職し、総勢58名が犠牲になった。現在発電所傍に慰霊碑が建立されているほか、雪崩事故の現場付近には事故で犠牲者を出した大成建設の現場責任者が自費で建立した慰霊碑がある。
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