自然災害と疫病
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:04 UTC 版)
幕末に諸外国からの開国圧力が強まる中、大地震が続発した。弘化4年(1847年)には長野で善光寺地震が起き、山崩れでせき止め湖決壊などのため、1万人を超す犠牲者が出た。ペリー来航直前の嘉永6年(1853年)3月に小田原地震(M6.7、震度7、江戸の震度4-5)が起きた。翌年日米和親条約が締結されると、伊賀上野地震(M7.3)が発生し、以降、13回の地震が連発する安政の大地震が発生した。嘉永7年には、南海トラフ巨大地震である安政東海地震と安政南海地震(M8.4、震度7)、豊予海峡地震(M7.4、震度6)が発生し、幕府は災異改元で安政に改元するが、安政2年に飛騨地震(M6.8)、陸前地震、安政江戸地震(M6.9-7.4、推定死者1万人)が発生した。安政3年にも安政3年の大風災で台風と高潮が江戸を襲い(推定死者10万人)、安政八戸沖地震(M6.9-8.0)が発生した。安政4年に芸予地震(M7.3)が発生、安政5年(1858年)の飛越地震(M7.1、震度7)では鳶山崩れも併発し、常願寺川のせき止め湖が二度決壊して下流に大被害を出した。 安政5年にはコレラも流行し、江戸だけで死者が3万人から30万人に及んだ。さらに文久2年(1862年)のコレラ流行では安政5年の数倍の死者が出た。文久2年にははしかも大流行し、江戸だけで239,862人の死者が出た。こうした度重なる疫病による社会不安が徳川幕府崩壊の要因の一つともなった。
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