縄文人観の歴史的変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 09:30 UTC 版)
縄文時代の日本列島に住んだ人々に対するイメージは、その時々の日本社会の風潮と呼応して様々に移り変わってきた。 「日本列島の先住民族」としての縄文人 明治期には縄文人は「石器時代人」と呼ばれ、日本列島の先住民族と考えられていた。この時期には日本人の祖先は「天孫族」と呼ばれており、記紀神話にあるように列島史のある段階で別の場所から日本列島にやって来た人々であるとされていた。その為、「石器時代人」はいわゆる日本民族の祖先ではなく、アイヌの祖先あるいはアイヌ神話に登場するコロポックルではないかと考えられており、この論点を巡って「アイヌ・コロポックル論争」と呼ばれる論争も発生した。 こうした見方は鳥居龍蔵による「固有日本人論」にも受け継がれたが、一方で昭和に入ると浜田耕作が縄文人を日本民族の祖先と見る説を発表し、学界に一石を投じた。 「高級狩猟民」としての縄文人 1930年代には唯物史観が登場し、縄文人を経済面から新たに捉え直そうとする動きが始まる。代表的な論者として山内清男が挙げられる。山内は縄文人を、男性が狩猟・漁労に従事し、女性が採集活動に従事するという分業体制を持った、発達した狩猟採集民族であったと考えた。 「弥生文化の母体」としての縄文人 戦後(第二次世界大戦後、太平洋戦争後)つまりまだDNA分析技術が無く、学者もまだ出土「史料」だけに基づいて起きた出来事を空想するにとどまっていた時代には、それまで「弥生人に単純に置換された存在」と見られていた[要出典]縄文人を、「弥生文化を主体的に受容して弥生人へと変化していった人々[要出典]」として捉え直す人[誰?]が現れた。 「人類史上類例の無い狩猟採集民」としての縄文人 1970年代以降には更に研究が進展し、それまで動物性食料に依存していたと思われていた縄文人が、実際にはクリなどの堅果類や芋などの根茎類を多く食べていたことが明らかとなった。また同時期のヨーロッパの新石器時代人が農耕や牧畜を行っていたとされた のに対し、1970年代には縄文人によるヒエ栽培や、縄文後期の水稲を含む稲作の存在が研究者の間でも周知とはなっていなかった。 この結果、縄文人は当時の日本列島の生態系に適合した食料獲得システムを構築し、1万年間の長きに渡って豊かな狩猟採集食文化を維持した、人類史上にも他に類例の無い人々であったとの見方が登場した。 「海洋民族」としての縄文人 伊豆諸島産の黒曜石が縄文時代やそれ以前に 東日本各地で使用されていたことに注目した小田静夫や橋口尚武らの研究により、関東地方の縄文人が縄文早期中葉には内海での漁労に加えて伊豆諸島など外海へも進出していたことが明らかとなった。 また「縄文土器がバヌアツで表層採取された」というニュース(これについては事実の解釈を巡って議論が続いている)にも注目し、縄文人が南太平洋に進出してポリネシア人の祖先になったという説を唱える者や、エクアドルで縄文式土器に似た土器(バルディヴィア土器)が出土したことを理由に、縄文人が南米大陸に到達していたという説を唱える者さえも出現した。
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