第6、第7の哨戒 1945年3月 - 7月
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「クレヴァル (潜水艦)」の記事における「第6、第7の哨戒 1945年3月 - 7月」の解説
3月13日、クレヴァルは6回目の哨戒でライオンフィッシュ (USS Lionfish, SS-298)、トルッタ (USS Trutta, SS-421) とウルフパックを構成し東シナ海に向かった。クレヴァル以下のウルフパックは最初、九州の南部を哨戒して戦艦大和以下の艦隊の進出に備えたが、大和らの艦隊はクレヴァルらがいる海域を通過しなかった。その後九州西岸沖を北上し、4月9日には駆潜艇と思しき艦船を砲撃で破壊。4月10日には壱岐島近海で海防艦生名を雷撃し、撃破した。この頃、対馬海峡に日本海軍が対潜機雷を敷設している情報がもたらされていたので、クレヴァルは4月21日から機雷礁の調査を行った。調査中の4月23日から25日までは、沖縄戦の支援でパイロット救助の任務も兼ねた。5月3日、クレヴァルは46日間の行動を終えてグアムアプラ港に帰投。この哨戒で従軍星章を受章した。 5月27日、クレヴァルは7回目の哨戒でバーニー作戦に参加して日本海に向かった。このバーニー作戦は、この時点の日本に残されたほぼ唯一の重要航路に打撃を与えるものであり、対馬海峡の機雷原突破と日本海を悠然と航行する日本船は、目標の減少に嘆いていた潜水艦部隊にとっては絶好のスリルであり獲物であった。この作戦には9隻の潜水艦が投入され「ヘルキャッツ」 Hellcats と命名された。各潜水艦は三群に分けられ、シードッグ (USS Sea Dog, SS-401) のアール・T・ハイデマン艦長(アナポリス1932年組)が総司令となった。クレヴァルはシードッグ (USS Sea Dog, SS-401)、スペードフィッシュ (USS Spadefish, SS-411) と共にウルフパック「ハイデマンズ・ヘップキャッツ」 Hydeman's Hep Cats を組み、第一陣として6月4日までに対馬海峡に進出した。 リレー式に対馬海峡を突破した各潜水艦は三群それぞれの担当海域に向かい、6月9日日の出時の攻撃開始を待った。「ハイデマンズ・ヘップキャッツ」は北海道の西部海域から新潟沖に進出し、クレヴァルは北海道の西部海域に進出した。作戦初日の6月9日、クレヴァルは青森県艫作岬沖で北都丸(板谷商船、2,215トン)を撃沈した。翌6月10日も同じ海域で大輝丸(大連汽船、2,217トン)を撃沈。さらに6月11日にも博山丸(宮地汽船、2,211トン)も撃沈し、3日連続で戦果を挙げた。その後も商船を発見しては攻撃を続けたが、4隻目の戦果はなかなか挙げられなかった。6月14日には2隻の松型駆逐艦を発見して攻撃したが、成功しなかった。魚雷が艦尾発射管の2本しか残っていなかった6月22日未明、クレヴァルは北海道西部沖で対潜掃討中の海防艦笠戸を8,100メートルの距離で発見した。クレヴァルは笠戸を夕雲型駆逐艦あるいは吹雪型駆逐艦と判断していた。笠戸もソナーでクレヴァルを探知し、クレヴァルに向かってきた。クレヴァルは艦尾発射管を笠戸の真正面の方向に向け、最後に残った魚雷を笠戸に向けて発射した。そのうちの1本が笠戸の艦首に命中し、笠戸は艦首を吹き飛ばされて大破したが、沈没は免れた。クレヴァルはシードッグ、スペードフィッシュと再会したあと、6月24日夜に宗谷海峡西側に到着。6月19日に討ち取られたボーンフィッシュ (USS Bonefish, SS-223) 以外の各潜水艦は翌25日正午に濃霧の中を二列縦陣、浮上航行で海峡を通過し、オホーツク海に入った。7月5日、クレヴァルは38日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。クレヴァルはその後、8月11日に8回目の哨戒の準備でグアムに向かったが途中で終戦となり、グアムとサイパン島に寄港した後、9月10日に真珠湾に到着。3日後の9月13日にニューヨークに向けて出航し、10月5日に到着した。
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