第2の人生
第2の人生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:47 UTC 版)
「すずらん (テレビドラマ)」の記事における「第2の人生」の解説
1982年(昭和57年)。萌は年初に幸福学園を閉じ、光太郎が勤める建設会社の東京にある社宅に身を寄せ、光太郎夫婦と孫娘の遥との一家団欒の暮らしを始める。民子が萌の自叙伝作りのためインタビューをしつつ、引きこもりがちで退屈な日々を過ごしていた。偶然立ち寄った弁当屋「おふくろ亭」で、子供をおぶったまま働くシングルマザーを見かねたことから保育園を探すようにと諭して、萌はその代わりに働き出し、アパートに部屋を借りて一人暮らしをはじめる。旭川で駅弁屋の事業が成功し東京の老人ホームで隠居生活をしていた竹次郎と意気投合し、次々と開発した弁当のおかげで「おふくろ亭」は商売繁盛となったが、保育園はどこも入所待ちで簡単には入れてくれないという。幸福学園での教え子で医師となった大作が勤める大学病院で健康診断を受けた折、橘が同じ病院に入院していることを民子から聞き、意識が無く余命僅かな橘に対面し、30年前に母親と再会できて感謝している旨を伝えた。 その後、橘の遺言に基づいて30億円相当の現金預金・三丸商事株式を萌に相続させる旨を弁護士が伝えに来た。受け取る理由は無いと一旦は固辞したが、民子に「夢の実現のために」と諭され、萌は働いている親が安心して子供が預けられる保育園を作りたいと決意し、相続。騒音を危惧し、保育園開設に反対する近隣マンションの住民グループが現れるも、萌は理解が得られるまで時間をかけることを信念とした。しかし光太郎は賄賂で収束を納めようとしたことから、反対住民との関係が悪化してしまう。どうして急ぐのかと萌の問いに、光太郎は「時間がないんだ」と泣きながら言う。先頃、大策から光太郎へ、萌は末期癌で余命1年程度しか無いと宣告を受けたのであったが、萌は癌を理由にせず、自分の生い立ちを話すことで住民の理解を得て、1983年(昭和58年)、「すずらん保育園」は竣工した。 その後、竹次郎・光太郎・遥・関係が修復した由美子が揃ったクリスマスパーティーを過ごし、皆で明日萌を目指して深川の旅館に着くが、病魔に侵された萌は体調を崩して寝込んでしまう。翌朝、遥だけを連れてタクシーで明日萌駅へと向かう(第一話の回想した萌の場面に戻る)。 萌は自分が生まれ育った待合室の古ぼけた椅子の隅に遥を連れて座り、飾られたままとなっている50年近く前の自分が写った写真を眺め、昔を振り返りながら、次郎の姿と入線する汽車の幻を見る。光太郎らが後追いで来た時には、萌は59年の生涯を閉じて永遠の眠りについていた。幼少の遥はそれを理解できずにいた(総集編とノベライズはここで終了)。
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