第2の僭主
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「ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の記事における「第2の僭主」の解説
詳細は「偽ドミトリー2世」を参照 しかし新しいツァーリのヴァシーリー・シュイスキー(ヴァシーリー4世)には人望も力もなく、その治世は安定とはほど遠かった。偽ドミトリーに対する反乱を率い、500人のポーランド人兵士を殺してポーランドの特使を投獄した彼は反ポーランドの人物とみられていた。内戦状態は続き、1607年には前年から始まったイヴァン・ボロトニコフらの農民反乱がモスクワを包囲する事態となり、さらにまたしてもドミトリーを自称する人物(偽ドミトリー2世)が登場した。クレムリンで殺される前に身代わりを立てて逃げのびたと称する彼は、ポーランドのマグナートの一部の支援を受け、さらに偽ドミトリー1世の妻だったマリナ・ムニーシェヴァも彼を「本物のドミトリー」であると確認した。 彼女の確認により、偽ドミトリー2世は偽ドミトリー1世を支えた連合の貴族たちからの支持を集めることができた。アダム・ヴィシニョヴィエツキ (Adam Wiśniowiecki)、ロマン・ルジニスキ (Roman Różyński)、ヤン・ピョトル・サピエハ (Jan Piotr Sapieha) らはこの僭称者も支援しようと決め、資金や兵士7,500人を彼に支援した。偽ドミトリー2世軍によるロシアでの略奪、とりわけならず者の頭領であるアレクサンデル・リソフスキ (Aleksander Lisowski) が率いた傭兵集団リソフチツィ (Lisowczycy) は悪名高く、セルギエフ・パサドの町には「三つの疫病: チフス、タタール人、ポーランド人」という札が掲げられることになる。 1608年、アレクサンデル・クレチコフスキ (Aleksander Kleczkowski)、リソフチツィ、ドン・コサック軍数百人など、ならず者の傭兵たちは、ロシアのボヤーレであるザハリ・リャプノフ (Zakhary Lyapunov)、イヴァン・ホヴァンスキー (Ivan Khovansky) 率いるツァーリ軍をモスクワの南100kmのザライスクで破り、ミハイロフ、コロムナを陥落させた。リソフチツィはモスクワへ進軍したが、メドヴェジー・ブロドでヴァシーリー・ブトゥーリン (Vasiliy Buturlin) の軍に敗れ、それまでの略奪品のほとんどを失った。 ヤン・ピョトル・サピエハとリソフチツィはモスクワの北100kmの町セルギエフ・パサドで、守りの要であった至聖三者聖セルギイ大修道院の包囲に取り掛かったが陥落させることができなかった(この修道院は1610年まで包囲されたがついに陥落しなかった)。リソフチツィは一旦撤退したが、コストロマやソリガリチなどを落として略奪を行った。 偽ドミトリーは1608年春、モスクワ南西のカラチェフ、ブリャンスクなどの町を素早く陥落させ、ポーランド人の補強を受けながらモスクワに向かって進み、ボルホフでツァーリの軍を破った。ボヤーレたちの広大な領地を全部没収するというドミトリーの公約は多くの庶民を味方につけた。モスクワから北へ20kmの村トゥシノはドミトリー軍の宿営地となり、兵隊や庶民、ボヤーレたちが集まるロシアのもう一つの首都となりつつあった。彼の軍は最初はポーランド貴族の私兵や傭兵7,000人、コサック10,000人、その他10,000人のポーランド・リトアニア兵(1606年から始まり1608年に鎮圧されたポーランド国王に対する貴族の内乱・ゼブジドフスキの反乱 rokosz Zebrzydowskiego に参加していた兵)で構成されていたが、行軍するうちに規模が拡大し10万人を超えるほどの勢力になった。 偽ドミトリーは、かつてフョードル・ロマノフという名の貴族だった修道僧フィラレートを捕虜とし、トゥシノ府主教の地位へと引き上げた。さらにヤロスラヴリ、コストロマ、ヴォログダ、カシンなどの都市からの忠誠をも勝ち取った。しかし快調にロシアの征服を進める偽ドミトリーに転機が訪れる。ポーランド・リトアニア共和国のジグムント3世が自らロシア内戦へ積極的な介入をすることを決めたのである。
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