第2の僭主とは? わかりやすく解説

第2の僭主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 15:01 UTC 版)

ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の記事における「第2の僭主」の解説

詳細は「偽ドミトリー2世」を参照 しかし新しツァーリヴァシーリー・シュイスキーヴァシーリー4世)には人望も力もなく、その治世安定とはほど遠かった偽ドミトリー対す反乱率い500人のポーランド人兵士殺してポーランド特使投獄した彼は反ポーランドの人物とみられていた。内戦状態続き1607年には前年から始まったイヴァン・ボロトニコフらの農民反乱モスクワ包囲する事態となり、さらにまたしてもドミトリー自称する人物偽ドミトリー2世)が登場したクレムリン殺される前に身代わり立てて逃げのびたと称する彼は、ポーランドマグナート一部支援を受け、さらに偽ドミトリー1世の妻だったマリナ・ムニーシェヴァも彼を「本物ドミトリー」であると確認した。 彼女の確認により、偽ドミトリー2世偽ドミトリー1世支えた連合貴族たちから支持集めることができた。アダム・ヴィシニョヴィエツキ (Adam Wiśniowiecki)、ロマン・ルジニスキ (Roman Różyński)、ヤン・ピョトル・サピエハ (Jan Piotr Sapieha) らはこの僭称者支援しよう決め資金兵士7,500人を彼に支援した偽ドミトリー2世軍によるロシアでの略奪とりわけならず者頭領であるアレクサンデル・リソフスキ (Aleksander Lisowski) が率いた傭兵集団リソフチツィ (Lisowczycy) は悪名高くセルギエフ・パサドの町には「三つ疫病: チフスタタール人ポーランド人」という掲げられることになる。 1608年、アレクサンデル・クレチコフスキ (Aleksander Kleczkowski)、リソフチツィ、ドン・コサック軍数百人など、ならず者傭兵たちは、ロシアボヤーレであるザハリ・リャプノフ (Zakhary Lyapunov)、イヴァン・ホヴァンスキー (Ivan Khovansky) 率いツァーリ軍をモスクワの南100kmのザライスク破りミハイロフコロムナ陥落させた。リソフチツィはモスクワへ進軍したが、メドヴェジー・ブロドでヴァシーリー・ブトゥーリン (Vasiliy Buturlin) の軍に敗れそれまで略奪品のほとんどを失った。 ヤン・ピョトル・サピエハとリソフチツィはモスクワの北100kmの町セルギエフ・パサドで、守りの要であった至聖三者聖セルギイ大修道院包囲取り掛かった陥落させることができなかった(この修道院1610年まで包囲されたがついに陥落しなかった)。リソフチツィは一旦撤退したが、コストロマソリガリチなどを落として略奪行った偽ドミトリー1608年春、モスクワ南西カラチェフブリャンスクなどの町を素早く陥落させ、ポーランド人補強を受けながらモスクワ向かって進みボルホフツァーリの軍を破ったボヤーレたちの広大な領地全部没収するというドミトリー公約多く庶民味方につけたモスクワから北へ20kmのトゥシノはドミトリー軍の宿営地となり、兵隊庶民ボヤーレたちが集まるロシアもう一つ首都となりつつあった。彼の軍は最初ポーランド貴族私兵傭兵7,000人、コサック10,000人、その他10,000人のポーランド・リトアニア兵(1606年から始まり1608年鎮圧されポーランド国王対す貴族内乱ゼブジドフスキの反乱 rokosz Zebrzydowskiego に参加していた兵)で構成されていたが、行軍するうちに規模拡大し10万人を超えるほどの勢力になった偽ドミトリーは、かつてフョードル・ロマノフという名の貴族だった修道僧フィラレート捕虜とし、トゥシノ府主教地位へと引き上げた。さらにヤロスラヴリコストロマヴォログダカシンなどの都市からの忠誠をも勝ち取った。しかし快調にロシアの征服進め偽ドミトリー転機訪れる。ポーランド・リトアニア共和国ジグムント3世が自らロシア内戦積極的な介入をすることを決めたのである

※この「第2の僭主」の解説は、「ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)」の解説の一部です。
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