第二次世界大戦後の復帰(1951年 - 1955年)
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「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「第二次世界大戦後の復帰(1951年 - 1955年)」の解説
戦前と変わらず、監督はノイバウアー、車両設計はウーレンハウトという体制。ドライバーたちの多くは都合がつかず、当初は高齢のカラツィオラとラングしかいなかったが、F1参戦にあたってファン・マヌエル・ファンジオらが加入する。 1949年5月23日、ドイツ連邦共和国(Bundesrepublik Deutschland)、通称「西ドイツ」が成立する。ダイムラー・ベンツが本社を置くシュトゥットガルトを含むバーデン=ヴュルテンベルク州は西ドイツの構成州となる。 1950年12月、ダイムラー・ベンツの施設復旧計画の第1段階が終了し、ウンターテュルクハイムの施設は1943年の80%程度まで再建された。 1951年2月、非選手権のブエノスアイレスグランプリ(英語版)に出場し、3台のW154を出走させる。 6月15日、ダイムラー・ベンツの取締役会がモータースポーツ活動の再開を決定する。この決定に付随して、レース専用車両の開発については保留され、まず市販車をベースにした車両による参戦が提案される。 1952年1月、モンテカルロラリーで300SL(W194)がデビューを果たす。 6月、ル・マン24時間レースで300SL(W194)が1-2フィニッシュを果たし、ドイツ車として同レースにおける初優勝を遂げる(優勝した21号車のドライバーはラングとフリッツ・リース(英語版))。この勝利によりメルセデスは世界三大レース全てにおける優勝を達成する。(→#300SL(W194)) 8月、この年のシーズン後半のレース活動を全て休止して、翌シーズンに向けた準備期間にする決定が下される。 1953年翌年からのF1参戦に備え、この年はスポーツカーレースへの参戦を見合わせる。 1954年 ファン・マヌエル・ファンジオとW196 (W196R)オープンホイール仕様 W196Rが完成し、2月18日にホッケンハイムリンクに持ち込み、テストを開始する。 7月、メルセデスが第4戦フランスグランプリでF1に初参戦する(車両はW196R)。(→#シルバーアローの復活) ファンジオがこの年のF1ドライバーズチャンピオンとなる。 1955年 スターリング・モスと300SLR(W196S) 1953年と1954年は参戦を休止していた世界スポーツカー選手権に復帰し、新型車300SLRを投入する。(→#300SLR(W196S)) 開発費用があまりに高騰したことから、F1からの撤退を決定する。 6月、ル・マン24時間レースで、300SLRを駆るルヴェーが関連する事故が起こり、81人の観客が死亡する惨事となる。 この年のヨーロッパラリー選手権(ERC)で、300SLを駆ったヴェルナー・エンゲル(フランス語版)がドライバーズタイトルを獲得する。 ファンジオがこの年もF1ドライバーズチャンピオンを連覇する。 メルセデスチームがこの年の世界スポーツカー選手権のマニュファクチャラーズチャンピオンとなる。 10月24日、モータースポーツのワークス活動の終了を発表し、レースから撤退する。
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