立宗以降とは? わかりやすく解説

立宗以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 02:52 UTC 版)

大川隆法」の記事における「立宗以降」の解説

1986年10月6日幸福の科学事務所東京都杉並区西荻南開設し主宰当時)に就任同年11月23日東京の日暮里酒販会館(現・幸福の科学初転法輪記念館)にて、87人の会員・未会員に対して初めての説法を行う(「初転法輪」)。翌1987年3月8日には、東京新宿区牛込公会堂にて約400人を集め幸福の科学第1回講演会開催演題は「幸福の原理」。このとき、幸福の科学会員心得である「正しき心の探究」、その具体的展開である基本教義の「愛」「知」「反省」「発展」の「現代的正道」(幸福の原理)を説く前年著述した「救世三部作」と呼ばれる太陽の法』『黄金の法』『永遠の法』はこの年発刊した1988年4月10日東京大学英文科卒業したばかりの木村恭子結婚し5人の子儲ける。 それまで自著太陽の法』などで示してきたが、1989年11月書籍仏陀再誕』を出版し1990年10月28日第12回講演会(於:幕張メッセ)では自身は「仏陀の魂の再誕」であると明示し宗教家として地位高めようとした。1989年1月セミナーでの大川宣言により幸福の科学思想・宗教統合目指す宗教団体転換を図ることになり、この頃から2009年まで一時期霊言集」と題する著書の出版少なくなった。1991年7月15日東京ドーム行われた大川の「御生誕祭」で、大川自身が「エル・カンターレ」であると宣言した。この集会テレビなど取り上げられ世間広く知られることになったが、雑誌フライデー』に自身批判記事掲載されることにもなった(講談社フライデー事件)。1994年4月10日法話方便時代終わった」を説き根本経典基本書の改訂を行う。また、ノストラダムス戦慄の啓示」で初の製作総指揮務めた1995年年末の「エル・カンターレ祭以後マスコミへの登場少なくなったが、2009年幸福実現党立党以降からはマスコミへの登場再開した1997年1月教団トップとして地位を、「主宰」から「総裁」に変更した2007年11月18日ハワイにて海外初の転法輪説法行ったことを端緒として、海外講演活動始める。 2009年幸福実現党創立、党総裁就任マスコミに対して講演会模様18年ぶりに公開し結党理由明らかにした。その後同年8月第45回衆議院議員総選挙への出馬表明一時期出馬見送り公表したが、翌日再度出馬表明し落選する結果となった2010年年初からは「霊言」を再開し降霊した大川教団幹部質問するという内容を「公開霊言」と称して短期間書籍化し2009年11月から2010年11月まで発刊した52冊が、年間最多発刊書籍ギネス世界記録として認定された。 2010年から離婚協議であった大川きょう子2012年離婚し同年教団職員近藤紫央(大川紫央)と再婚した年間書籍発刊ギネス世界記録2010年以降毎年記録更新しており、2014年だけで163冊を出版した2015年12月中旬発刊の『正義の法』で著作2000冊を突破することを記念し11月25日東京都千代田区如水会館で「突破記念パーティー」を行った2016年5月11日大阪市・大阪城ホール講演会信仰繁栄」、同年7月14日さいたまスーパーアリーナ講演会地球を救う光」 などの講演より政治的発言行っている。 2022年5月下旬発刊書籍自分鍛える道』で著作が3,000冊を突破した

※この「立宗以降」の解説は、「大川隆法」の解説の一部です。
「立宗以降」を含む「大川隆法」の記事については、「大川隆法」の概要を参照ください。

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