立宗以降
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1986年10月6日、幸福の科学の事務所を東京都杉並区西荻南に開設し、主宰(当時)に就任。同年11月23日東京の日暮里酒販会館(現・幸福の科学初転法輪記念館)にて、87人の会員・未会員らに対して初めての説法を行う(「初転法輪」)。翌1987年の3月8日には、東京新宿区の牛込公会堂にて約400人を集め幸福の科学第1回講演会を開催。演題は「幸福の原理」。このとき、幸福の科学の会員心得である「正しき心の探究」、その具体的展開である基本教義の「愛」「知」「反省」「発展」の「現代的四正道」(幸福の原理)を説く。前年に著述した「救世の三部作」と呼ばれる『太陽の法』『黄金の法』『永遠の法』はこの年に発刊した。1988年4月10日、東京大学英文科を卒業したばかりの木村恭子と結婚し5人の子を儲ける。 それまで自著『太陽の法』などで示してきたが、1989年11月に書籍『仏陀再誕』を出版し、1990年10月28日第12回大講演会(於:幕張メッセ)では自身は「仏陀の魂の再誕」であると明示し、宗教家としての地位を高めようとした。1989年1月のセミナーでの大川の宣言により幸福の科学は思想・宗教の統合を目指す宗教団体に転換を図ることになり、この頃から2009年までの一時期「霊言集」と題する著書の出版は少なくなった。1991年7月15日に東京ドームで行われた大川の「御生誕祭」で、大川は自身が「エル・カンターレ」であると宣言した。この集会はテレビなどで取り上げられて世間に広く知られることになったが、雑誌『フライデー』に自身の批判記事が掲載されることにもなった(講談社フライデー事件)。1994年4月10日に法話「方便の時代は終わった」を説き、根本経典や基本書の改訂を行う。また、「ノストラダムス戦慄の啓示」で初の製作総指揮を務めた。1995年の年末の「エル・カンターレ祭」以後、マスコミへの登場は少なくなったが、2009年の幸福実現党の立党以降からはマスコミへの登場を再開した。1997年1月、教団のトップとしての地位を、「主宰」から「総裁」に変更した。 2007年11月18日、ハワイにて海外初の転法輪説法を行ったことを端緒として、海外講演活動を始める。 2009年に幸福実現党を創立、党総裁に就任。マスコミに対して講演会の模様を18年ぶりに公開し、結党理由を明らかにした。その後同年8月の第45回衆議院議員総選挙への出馬を表明。一時期は出馬見送りを公表したが、翌日に再度出馬を表明し、落選する結果となった。2010年の年初からは「霊言」を再開し、降霊した大川に教団幹部が質問するという内容を「公開霊言」と称して短期間で書籍化し、2009年11月から2010年11月まで発刊した52冊が、年間・最多発刊書籍のギネス世界記録として認定された。 2010年から離婚協議中であった大川きょう子と2012年に離婚し、同年教団職員の近藤紫央(大川紫央)と再婚した。 年間書籍発刊数ギネス世界記録の2010年以降も毎年記録を更新しており、2014年だけで163冊を出版した。 2015年12月中旬に発刊の『正義の法』で著作が2000冊を突破することを記念し11月25日に東京都千代田区の如水会館で「突破記念パーティー」を行った2016年5月11日大阪市・大阪城ホールで講演会「信仰と繁栄」、同年7月14日さいたまスーパーアリーナで講演会「地球を救う光」 などの講演により政治的発言を行っている。 2022年5月下旬発刊の書籍『自分を鍛える道』で著作が3,000冊を突破した。
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