神奈川県警察部による検挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:23 UTC 版)
「横浜事件」の記事における「神奈川県警察部による検挙」の解説
細川検挙の3日前の9月11日、神奈川県警察部特高課は、アメリカ合衆国で労働運動を研究して帰国した川田寿とその妻を「アメリカ共産党の指令を持ち帰った」という容疑で検挙する。しかし川田はアメリカ共産党員だったことはなく、神奈川県警による虚偽の容疑だった。川田は当時世界経済調査会の資料室長を務めており、神奈川県警は川田の関係者に検挙の手を広げる。その中に、世界経済調査会の高橋善雄がいた。高橋は「ソ連問題調査会」を南満州鉄道(満鉄)東京支社調査室のメンバーと結成しており、そこから満鉄調査室も捜査の対象となる。1943年5月11日、満鉄調査室の西沢富夫と平館利雄が検挙され、西沢の家宅捜索で警察は1枚の写真を発見した。 この写真は、細川嘉六と『改造』や『中央公論』の編集者、満鉄調査室関係者などが同席した集合写真(上左から小野康人、細川、西沢富夫、下左から平館利雄、加藤政治、木村亨、相川博)(西尾忠四郎が撮影)で、これを神奈川県警察部は日本共産党再建準備会の写真と決めつけた。実際には細川の郷里・富山県下新川郡泊町(現・朝日町)の料亭旅館「紋左(もんざ)」で撮影されたもので、細川が1942年7月に親しい編集者・研究者を招いて1泊2日の懇親会を催した際の記念写真に過ぎなかった。 この写真を起点に、改造社と中央公論社をはじめ、朝日新聞社、岩波書店などに所属する関係者約60人が次々に治安維持法違反容疑で逮捕される。神奈川県警察部は被疑者を革や竹刀で殴打して失神すると気付けにバケツの水をかけるなど激しい拷問を加えた。拷問で虚偽の自白を強要した。別件の論文事件で起訴されて東京地方裁判所で公判を受けていた細川は、この事件の関連者とされ、1944年5月に他の事件検挙者が収監されていた横浜刑務所の未決監に身柄を移された。厳しい捜査で4人が獄死した。神奈川県警察部の管轄事件であったために横浜事件と呼ばれるようになった。 判決が下ったのは玉音放送がされた直後、即ち法が廃止される1ヶ月前の1945年8月下旬から9月にかけての駆け込み言い渡しで 、約30人が執行猶予付きの有罪とされた。GHQによる戦争犯罪訴追を恐れた政府関係者によって当時の公判記録は全て焼却(証拠隠滅)され 、残っていない(遺族が再審請求に提出した証拠の「確定判決書」はアメリカ国立公文書記録管理局に保存されていた物の謄本である)。被告のうち、細川嘉六は不当な拘禁と捜査に対して徹底的に抗議すべきという立場から容疑を認めることがなく、1945年9月に保釈された後、10月の治安維持法廃止によって11月に審理打ち切り・免訴となった。 戦後、元被告は「笹下会」という組織を結成して1947年に会員33人が当時手を下した元特高警察官28人を告訴し、1952年に最高裁判所でうち3人が有罪・実刑が確定したが、同年4月の日本国との平和条約発効時の大赦令により釈放され、実刑に服することはなかった。また裁判官・検察官に対しては何らの処分もされていない。 真相については現在でも不明な部分が多く、言論弾圧的な側面だけではなく反東條英機の有力な重臣であった近衛文麿の失脚を期したものではないかと推測される場合もある。というのは、近衛の側近・後藤隆之助の主宰した「昭和塾」で細川嘉六が講師をしていた関係で、塾からも逮捕者がでているからである。細川嘉六は、1953年に服部之総による聞き取りにおいて、論文事件の検挙に関して以下のような発言を残している。 その裏がどういうことになるかというと、段々近衛が危ないと思ったんだな。風見は私につながるでしょう。その先は尾崎につながる。尾崎事件の時は、私は睨まれた。私の論文のきっかけは、ずっと平和運動を始めはせんかということから、更にできるなら風見を引っ掴まえ、近衛を引っ掴まえてやろうというのが、唐沢とか、ああいう禄でもないやつが、内務大臣、岸あたりと組んでやったんじゃないか。(中略)あれは軍部の関係ですよ。軍部は、私の考えは、戦争はうまくいかないということだから、それで軍部として、内輪に何とかしなければならないと思ったんでしょう。
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