社会・経済問題の取り組み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 16:53 UTC 版)
「ウィリアム・セシル (初代バーリー男爵)」の記事における「社会・経済問題の取り組み」の解説
ヘンリー8世が実行した金貨・銀貨の貨幣改鋳は貨幣価値を下げる悪鋳のため物価騰貴を招き、国民生活に深刻な影響を与えた。貨幣の信用が低くなったため外国取引でも使用が拒否された経済危機の最中、1560年頃に友人のトーマス・グレシャムの要請を受け入れて銀貨の質を良質な物に戻す改鋳を進め、1562年までに銀貨改鋳を完了して貨幣価値を回復させた(金貨は既に良貨に改鋳されていた)。様々な産業奨励も手掛け、漁業奨励や火薬自給を図り、銅の採掘、造船に対する補助金支給、港湾整備、外国人技術者の移住奨励などを行った。1571年には利子を10%まで合法化する法も成立させている。 16世紀はイングランドの人口が2倍に膨れ上がるほどの人口急増で社会不安も増大、貧富の差が拡大し食糧が急騰、難民が生み出された。囲い込みがそれに拍車をかけ、難民の反乱の可能性が警戒される中、セシルは社会・経済問題に取り掛かった。実際はニコラス・ベーコンなど盟友や多くの専門家に問題を検討させその協議に委ねたためセシル自身の活動ははっきりしないが、彼の主導で法案にまとめられ、1563年に議会へ提出され修正と付加が重ねられた末、職人法(英語版)(職人規制法、徒弟法とも)が成立した。12歳から60歳までの男子の雇用と7年間の年季奉公を義務付け、賃金と地域ごとの労働時間を地方の治安判事に委ね、奉公人の理由の無い解雇・辞職を認めないこの法は自由経済を抑制したが、失業者を強制的に就職、特に農業へ従事させることで生産を高めると共に社会安定にも繋がり、以後200年に渡ってイングランドの産業の重要部分を規制し続けることになる。 また、貧民保護として既に地方で実施されていた対策を調査・検討し、全国に拡大する方針を取り、徒弟法の時と同じくベーコンら専門家集団と議会と検討を重ね、1576年の救貧法成立にこぎつけた。税金で失業者の仕事場を提供、老人・病人のための施設も用意することを定めた救貧法はセシルが亡くなる年の1598年に修正・拡大され、1601年の改正を経てその後のイングランドの福祉政策の基本となった。
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