社会・制度的側面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 05:09 UTC 版)
南京に入城後、太平天国は即座に制度の整備に着手し、まず天王である洪秀全以下の五王は場内に壮麗な宮殿を築いた。洪秀全と楊秀清のものがことに大きかった。宮殿の造営以後、洪秀全はその奥深いところに鎮座し、政務ばかりか民衆の前からも遠ざかったため、政務は楊秀清が取り仕切ることが慣例となった。初期に天京において立案・実行された政策は楊秀清の強力な統率の下に行われたものである。 天京周辺を支配したとはいえ、清朝との抗争に終止符が打たれたわけではないため、太平天国の社会編成は軍事的な色彩を帯び兵農一致が原則であった。たとえば決起直後から男女は夫婦といえど別々の集団に分けられていたが、天京においてもそれは継続された。ただ天王以下首脳部は例外で、庶民には一夫一婦制を求めながら、旧約聖書における一夫多妻を理由に多数の妻女をもっていた。実際には中国皇帝の後宮制度に影響を受けたものであろうが、こうした王と庶民との格差に不満が高まり1855年に男女を分かつことは廃止され、新占領地でのみ実施された。 この他、纏足も禁止された。元々客家出身が多い太平天国では纏足の習慣がなかった上に、戦闘において女性も輸送等の重要な役割を担っていたことが、纏足禁止令を出した理由である。この纏足の禁止や売春の禁止、女性向けに科挙を実施したことから、太平天国では男女平等を理念としていたかのように見える。しかし実際には女科挙合格者が重用されなかったり、後に濫発された王位に一人の女性も含まれていなかったことから判るように、男尊女卑的な考え方が払拭されることは無かったといえる。 さらに特筆すべきなのは天朝田畝制度である。これは田畝があれば誰もがそこで耕し、収穫物は皆で分け合い、豊かな衣食を手に入れる、という目標のために考案された制度である。具体的には、田をその質の良し悪しによって九階級に分け、質に応じて男女問わず田を分配し、生産物は個々人の消費分以外は国庫に保管し私有は認めない。そのかわり婚姻や葬儀のような儀礼の費用、孤児・老人の扶養については国庫より支出する。そして二十五戸ごとに両司馬という官と礼拝堂をおき、管理させるというものである。 土地平均主義を全面に押し出したこの制度は大土地所有が進行していた清朝にあって、非常に印象が強かったといわざるを得ず、その思想的意義は無視できない。しかし実際には民衆にほとんど知られることがなかったし、施行もされなかったと考えられている。それどころか支配地では、土地の有力者を「郷官」という職につけ、小作料を徴収していた。そうしなければ支配の安定と食料の確保が困難であったためである。 暦法では太陽暦を採用した天暦が施行された。
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