白糸貿易を巡るトラブル
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「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「白糸貿易を巡るトラブル」の解説
1630年、琉球が二年一貢への復帰に尽力している中、薩摩藩は深刻化した藩財政再建の切り札として琉球の朝貢貿易に参画し、その利潤を得る方針を決定した。朝貢貿易の中でも薩摩側が最も期待をかけたのが生糸貿易であった。翌1631年、薩摩藩は琉球側に二年一貢への復帰のみならず、船の数や派遣回数の増加を明側と交渉するように命じる。琉球側としても朝貢貿易の拡大は利益となるため薩摩藩との利害が一致する面もあった。そこで琉球は薩摩藩の要求に対して貿易を拡大したいのならば薩摩側も協力すべきではないかと訴えた。協議の結果、貿易資金の一部負担や人員の援助等、一定範囲で琉球側の訴えを認めて朝貢貿易を琉球と薩摩藩の共同経営として、貿易拡大を図る体制を整えた。 この薩摩藩との協力体制については、琉球王国内ですんなりと受け入れられたわけではない。国王の尚豊は、明からの冊封と島津氏への奉公の両立が琉球王国の基礎であるとして、1633年に冊封使を迎えるに当たり重臣に対して、琉球は明のご恩情によって存続して来れたわけで、まずは冊封使の覚えがめでたくなるように努め、それによって特に薩摩藩の求める貿易拡大が達成されるようにとの指示を出している。しかし国内には薩摩藩に反発する声も強く、尚豊の意向はなかなか徹底されなかった。 琉球が薩摩藩と協議した冊封貿易拡大策のうち、新たな朝貢品目を加え数量も増やすことによって貿易量を増加させる策は、明側も受け入れたために達成できた。そして朝貢品目と数量の増加に対応するために進貢船をこれまでの1隻から2隻とすることも了承された。しかし後に1680年代に接貢使として定着することになる、進貢使の出迎え目的で二年一貢の間の年に船を派遣する案は明側から拒絶された。また琉球側は1633年の尚豊冊封後、慶賀使や漂流民送還名目の解送使を相次いで送ったが、明側から貢期を厳守するように命じられた。明は琉球からの頻繁な船の派遣は、中国商品を入手して日本に転売する目的であることを見抜いていた。 そして朝貢貿易で最も利益を上げると期待した白糸(生糸)貿易で、大きな失敗をする。1634年と1636年の進貢時、琉球は薩摩側から押し切られる形で、明の規定に定められた限度額の12倍という多額の銀で白糸の買い付けを行おうとした。しかし1634年、1636年ともに詐欺に遭って多額の銀を福州の商人に持ち逃げされてしまった。琉球側は詐欺にあったことを福州当局に訴え、犯人逮捕と銀の返還を願った。ところがこれが藪蛇であった。限度額の12倍という多額の銀で白糸を買い付けようとしていたことが露見し、摘発されてしまったのである。結局1637年に琉球は白糸貿易の禁止のペナルティーを科せられた。1638年の進貢時は1637年の禁止命令が琉球まで届く日時が考慮されて白糸の取引が認められたが、1640年からは厳禁とされた。またせっかく購入した白糸も不良品であり、この白糸貿易をめぐるいきさつについて琉球は薩摩側から厳しく非難された。購入した白糸が不良品であったのは、薩摩藩との協力体制に不満を抱く交易担当者が不良品を購入したためであった。尚豊は交易担当者に厳しい処分を下し、薩摩側からの直接的な介入を回避した。 尚豊を始め琉球王府は白糸貿易の復活を願い、明側に請願を繰り返すとともに国王尚豊自身が寺社に白糸貿易の復活を祈願した。結局明の滅亡後の1645年、南明の弘光帝が白糸貿易の復活を認めることになる。一方、白糸貿易時の貿易担当者の抵抗に代表されるように、国王尚豊の明からの冊封と島津氏への奉公の両立が琉球王国の基礎であるという国家理念は、まだ琉球国内に十分定着していなかった。この国家理念の定着には明から清への王朝交代による混乱の沈静化と、羽地朝秀の改革により、儒教に基づく体制の再編が行われることが必要であった。
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