略伝と性格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 04:06 UTC 版)
河南府伊陽県の出身。祖父の程遹は黄州黄陂県令に任ぜられ黄陂で没した。その子である程珦はまだ幼く洛陽には戻れず黄陂にそのまま住み、県尉の地位に就いた。程頤と程顥は程珦が黄陂県尉だった時の子である。程頤は兄とともに14歳頃から周敦頤に学び、24歳頃から胡安定の教えを受ける。学問修養によって誰でも聖人になれるという趣旨を性善説の立場から論述した『顔子好学論』によって胡安定に認められ、大学の教官に推薦された。同じ頃皇帝に上書して理想政治に志があることを示したが、27歳で進士の最終試験に失敗してからは仕官を断念し、学問に専念した。 54歳の時、司馬光などの熱心な推挙により哲宗の講官(侍講)に就任したが、性格が謹厳に過ぎその非妥協的な言動が同僚との軋轢を生じ、特に蘇軾やその門下生と争い、まもなく朝廷を追われた。晩年はおおむね不遇であり、涪州に左遷されたこともある。
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略伝と性格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/09 14:19 UTC 版)
河南府伊陽県の出身。15歳頃から弟(程頤)とともに周敦頤に学ぶ。師の高潔で洒脱な人柄に接し、名利に動かされない態度に感銘を受けてからは、科挙のために学習することを嫌い、ひたすら内面生活の充実を心がけた。老荘や仏教に惹かれたが再び六経の研究に戻った。26歳で進士に合格し、38歳頃に中央官庁の役人になったが王安石と意見が合わず、その後は鄠・上元・沢州・汝州などの地方官として過ごした。 周時代の文王の「民を視ること傷むが如し」という精神を座右の銘として、誠によって民を感化することを政治の要訣と考えた。その温厚な人柄によって多くの人に慕われ、あわせて実務処理の優れた才能を発揮して善政を行ったため、「通儒全才」と称された。
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略伝と性格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/16 16:32 UTC 版)
鳳翔府郿県横渠の出身。嘉祐2年(1057年)に38歳で進士に合格して、祁州・鄜州・渭州などの地方官を歴任し、熙寧2年(1069年)の冬に朝廷に召されたが、王安石の新法に反対し、翌年病気を理由に帰郷、読書と思索に没頭した。熙寧10年(1077年)にも朝廷に召されたが志を得ず、その年の冬に辞職し、帰郷の途次に亡くなった。 「天地のために心を立て、生民のために道を立て、去聖のために絶学を継ぎ、万世のために太平を開く」という語で察せられるように、豪傑の性質を持つ。若い頃は兵法を好み、政治に情熱を燃やしたが、范仲淹に諭され『中庸』を授けられたのをきっかけに儒者に転じた。仏教・老荘の教えに一時心酔したが、嘉祐元年(1056年)に国都の開封で甥にあたる程氏兄弟(程顥・程頤)と出会い、儒者としての自信を確立したという。それまで虎の皮に座って『易』の講義をしていたのが、二程の『易』論を聴いて感服し、潔く虎皮を撤去して、門人たちを二程に師事させたという逸話がある。
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略伝と性格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 05:02 UTC 版)
涿州范陽県の出身。幼いときに父に従い衛州共城県蘇門山の百源(現在の河南省新郷市輝県市)に移住。若い頃から自負心が強く己の才能をもってすれば先王の事業も実現できるとし、郷里に近い百源のほとりに庵をたてて刻苦勉励した。この間、宋初の隠者の陳摶の系統をひく李之才(字は挺之)から『易経』の河図洛書と先天象数の学を伝授された。やがて自分の学問の狭さを自覚し、各地を遊歴して土地の学者に教えを請い見聞を広めたが、道は外に求めて得られないと悟り、帰郷して易学について思索を深めた。39歳頃に洛陽に移住し、以後亡くなるまでこの地で儒学を教えた。 邵雍は貧しかったが富弼・司馬光・程氏兄弟(程顥・程頤)・張載などの政学界の大物を知己とし、ものにこだわらない豪放洒脱な人柄から「風流の人豪」ともいわれ、洛陽の老若男女に慈父のように慕われた。晩年に天津橋上で杜鵑(ホトトギス)の声を聞き、王安石の出現と政界の混乱を予言した逸話は、邵雍の易学の一端をうかがわせる。
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