略伝と逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 15:46 UTC 版)
生家は江戸新橋の割烹・金春屋。屋根葺棟梁の北氏を継ぐ。狂歌を元木網に、国学を山岡浚明に学ぶ。江戸深川に住し、博覧強記をもって村田了阿と並称される。行年83。西久保巴町の天徳寺に葬る。 町人の学者として、狩谷棭斎(津軽屋三右衛門)・市野迷庵(市野屋三右衛門)とあわせて「三三右衛門」と称される。貧しい生計を立てながら酒は一滴も飲まず、暇さえあれば著述の筆をとったという。火事で三度も著書を焼き、改めて稿を起こすと前のと少しも違わなかったとも伝えられる。彼の性格については、喜多村信節が「お祭りを見るのが好きだった」と書いている。
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略伝と逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/12 08:35 UTC 版)
晋陵郡無錫県(現在の江蘇省無錫市)の出身。桓温及び殷仲堪の参軍となり、安帝の時代に散騎常侍となる。「画聖」とよばれ、謝安からは「史上最高の画家」と評され、重んじられた。著に『啓蒙記』『文集』がある。 顧愷之は博学で才気があり、同時代の人びとには画絶・才絶・癡絶の三絶を備えると云われていた。才絶は文章の才能で、癡絶は人物の呑気なことの意である。『晋書』の伝記にも諧謔を好んだことが書かれている。顧愷之はサトウキビをかじるにも、一般の人と違って先端の方から甘い根の方へとかじるのが常であり、その理由を問われたときに「漸入佳境(漸く佳境に入る)」と答えたという。この言い回しは、感興が高まる形容として使われるようになる。
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