由良川の氾濫と治水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 14:40 UTC 版)
かつての由良川の流れは現在の福知山駅周辺にまで流れており、また大雨が降るたび氾濫を起こし周辺の人々や建物に加え農作物などに深刻な被害をもたらす暴れ川であった。 明智光秀が福知山を統治するようになると、光秀は後に城下町ともなる城に連なる居住地造営と治水のため、長さ1kmにも及ぶ築堤により川筋を大幅に変更した ことにより川の流れは大幅に改善されたが、それでも洪水は収まらず、その後の為政者も治水に尽力を惜しまなかった。堤防保護のための藪を今もなお見ることができ、現在、国土交通省により行われている堤防築造や水位の監視などは光秀に始まるものである。 例えば1896年(明治29年)と1907年(明治40年)に起きた大雨による氾濫は、両者とも同じ堤防が決壊したことにより市街地は2階まで床上浸水し、水が引くまでは屋根の上で生活し移動も船でという状況だった。後者は前者と比べて教訓が生かされたこともあって被害が少なかった ものの、どちらも市街地はほぼ壊滅状態にまで追いやられた。同時に由良川に架かる橋であった音無瀬橋も2度流され、その費用補填のために大人4厘、子供2厘、牛馬は5厘という通行料を徴収したほどでもあった。加えて1953年(昭和28年)9月25日の台風13号による由良川の氾濫は、最高水位が7.8mにもなる大量の水が福知山市街地全域を水浸しにし、市内で死者は約40名、負傷者は約900名、家屋全壊、半壊ともに1100戸以上、床上浸水においては5300戸以上もの被害をもたらした。この台風のときの被害は地元では「28水」(28災とも)として知られ、このときの水位は福知山と水害を伝える資料として市内御霊公園に標識が設置されている。 その恐ろしさや先人の築いた堤防のありがたさを後世に伝えるため、御霊神社境内には全国唯一の堤防そのものを御神体とする堤防神社が建立されており、1931年(昭和6年)以降の毎年8月15日には、神輿が市内を巡回する「堤防祭り」が行われている。現在の「ドッコイセ花火大会」は、もともとはその祭りの行事の一つとして始まったものである。また、旧市街地の町屋には、浸水時に家財を2階や小屋裏に引き上げる滑車を備えた「タカ」と呼ばれるこの地独特の吹抜けが残されている。他にも三河橋(別名 有路下橋)などに代表される沈下橋の存在や、福知山市治水記念館などでも、当時をかたるさまざまな資料が残されており、水害と共に生きてきた市民の歴史を知ることができる。「タカ」も体験ができる。 一方、由良川は国土交通大臣により一級水系に指定されており、市内に供給される水道や農業用水の原水をもたらし、市民の手による鮎や鮭の稚魚の放流 といったイベントが開かれるなど、市民の生活には欠くことのできない川でもある。
※この「由良川の氾濫と治水」の解説は、「福知山市」の解説の一部です。
「由良川の氾濫と治水」を含む「福知山市」の記事については、「福知山市」の概要を参照ください。
- 由良川の氾濫と治水のページへのリンク