球団創立 - 水原監督時代
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「読売ジャイアンツ」の記事における「球団創立 - 水原監督時代」の解説
1935年 球団創立(大日本東京野球倶楽部)時の第一次米国遠征では、背番号を漢数字にしたユニフォームが使われた。左胸には「日の丸」をあしらったマークで「TOKYO」の文字が入り、右袖に(背)番号、左袖に漢字で「日本」と入る。色はグレー地。帽子は濃紺色でマークはオレンジで「T」。 1936年 - 1937年 球団名が「東京巨人軍」になり、第二次米国遠征。背番号はアラビア数字に、胸のレターが花文字(一般に早稲田型ロゴという)で上に「TOKYO」下に「GIANTS」の2段組になっている。色はグレー地。帽子は濃紺色でマークは金糸で「G」。帰国後は白地で胸に黒で「GIANTS」、帽子は白に濃紺のつばに黒の「G」マーク。グレー地で同じ物が作られ、これを着用するときは帽子は濃紺色、「G」マークは赤に白を縁取った七宝で出来ていた。どちらも袖に黒のダブルライン、パンツはシングルのサイドラインになっている。 1938年 - 1940年 白いユニフォームをマイナーチェンジし、パンツのサイドラインをダブルに変更。このユニフォームが戦後V9を達成したときのユニフォームの原型となる。 1941年 太平洋戦争勃発の年、軍事色が濃くなりユニフォームの胸のレターも「GIANTS」から漢字の「巨」に変更された。白地とグレー地の二種類があり、帽子のマークも「巨」、国防色の戦闘帽タイプも作られた。 1945年 - 1947年 白地に胸にエンジ色ないしは黒で「GIANTS」と入った二種類のユニフォームが作られ、左袖には読売新聞社の当時の社章(丸に「賣言賣」と入る)が付いた。 1947年 - 1949年 戦前のユニフォームに近いスタイルに戻る。1936年 - 1937年に使用されたユニフォームに近いが、パンツのサイドラインがダブルになっている。白地とグレー地があるがグレー地のパンツには腰に番号(背番号と同じ)が入る。 1950年 日本で初めて野球ユニフォームにラグランスリーブを採用する。 1951年 - 1952年 白地に胸ロゴ・背番号とも赤色の、子供受けを狙ったデザインが使用される。1951年途中から戦後から続いていた前立てラインが消えシンプルになった。ビジター用の左袖に初めて「TOKYO」の文字が入る。 1953年 - 1960年 巨人軍のチームカラーになるオレンジ・黒を採用する。1953年、初めての海外キャンプを行うために渡米した際、ユニフォームをウィルソン社に発注。出来上がったものはMLBのニューヨーク・ジャイアンツ(NYG)とデザイン、使用色等ほぼ同じものであった。胸のロゴも従来の花文字からNYGと同じ書体に変わったが、このユニフォームはウィルソン社製のもの(戦前、第二次米国遠征に使用したものと同じく、二段組みで「TOKYO GIANTS」と表記した胸ロゴが入ったものも作られた)だけで、日本社製のものは従来の花文字が使用された。この年からビジター用の胸に「TOKYO」のロゴが入り、左袖に「GIANTS」と入ったユニフォームがお目見えした。ホームは白地、ビジターはグレー地だった(先述のウ社製のホーム用には、胸に「TOKYO」が入ったものも使用された)。この年の帽子のマークは東京の「T」とジャイアンツの「G」を組み合わせた「TGマーク」だったが、翌年に現在まで使用され続けているYGマーク(YとGを重ねたマーク)が登場する。 1959年、9月に、ライン・背番号・胸マークの縁を赤色にしたホーム用を採用。シーズン終了まで使用。翌年開始予定のカラーテレビ放送の試験放送に合わせての採用。 1960年、6月11日の対広島カープ戦からシーズン終了まで、カラーテレビ用として、帽子のつばに朱色、胸のロゴ・背番号に赤色・白縁・黒縁を取り入れたユニフォームが使用された。またこのユニフォームより胸ロゴの下に胸番号が付いた。ホーム用は、白地のままだと、当時のカラーテレビではハレーションを起こすため、ベージュ地のユニフォームが採用された。
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