球団創設~19世紀
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「フィラデルフィア・フィリーズ」の記事における「球団創設~19世紀」の解説
1883年、当時スポーツ用品メーカーを経営していたアル・リーチと弁護士のジョン・ロジャースが、ナショナルリーグの新規参入球団募集の際、前年に破綻したウースター・ルビーレッグスのフランチャイズ権を取得し、「フィラデルフィア・クエーカーズ」として新たな球団を創設した。フィリーズの呼称は現在に至るまで変遷はなく、同一名球団としてはMLBで最も長い歴史を持つ。創設1年目は17勝81敗、勝率.173と散々な成績だった。翌1884年からハリー・ライトが監督に就任し、チャーリー・ファーガソン、ダン・ケーシー、チャーリー・バフィントンら有力投手を揃えチームを再建する。1880年代のフィリーズは貧打にあえいでいたが、1890年代になるとサム・トンプソン、ビリー・ハミルトン、エド・デラハンティ、タック・ターナー、ナップ・ラジョイ、エルマー・フリックといった名選手が登場し、攻撃力が増し、フィリーズは常にナショナルリーグの上位に顔を出す強豪となったが、肝心の優勝争いでは首位と10ゲーム以上離されるシーズンが続いた。しかし、1894年にはタック・ターナー(.418)、サム・トンプソン(.407)、エド・デラハンティ(.404)、ビリー・ハミルトン(.403)で4人の4割打者が誕生し、チーム打率.350(.3497)というとてつもない記録をつくった。また、19世紀のフィリーズの正捕手をしていたジャック・クレメンツは、当時から珍しかった「左投げの捕手」としても知られている。1894年に(.418)を記録した、タック・ターナーはスイッチヒッター(左投げ両打ち)ながら打率4割を記録しており、これは4割打者の中でも唯一の記録である。 ところが、1901年にアメリカンリーグが創立され、新たに同じフィラデルフィアを本拠地とするフィラデルフィア・アスレチックス(現・オークランド・アスレチックス)が創設されると、上記選手が次々と移籍。アスレチックスが強豪チームとして成長するのとは対照的に、主力選手を奪われたフィリーズは弱体化の一途を辿る。アスレチックスへの移籍を不服としたフィリーズは州の裁判所にこの移籍の無効を訴え、ラジョイはアスレチックスで1シーズンと1試合、フリックに至っては11試合にしか出場できず、共にクリーブランド・ナップス(現クリーブランド・ガーディアンズ)と再契約することになった。デラハンティはワシントン・セネターズ(現ミネソタ・ツインズ)移籍後の1903年、ナイアガラの滝で謎の転落死を遂げている。
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