現代の貴族院改革
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「貴族院 (イギリス)」の記事における「現代の貴族院改革」の解説
1945年に成立した労働党政権は、保守党が多数を占める貴族院が議会法に基づく停止的拒否権を行使することを懸念した。これに対して保守党貴族院院内総務クランボーン子爵(後の第5代ソールズベリー侯爵)ロバート・ガスコイン=セシルは、「庶民院総選挙で明確にマニフェスト(政権公約)として掲げられ、有権者の信任を得た法案について、貴族院は否決したり大幅修正してはならない」とするソールズベリー・ドクトリンを表明した。 1949年には議会法の改正があり、貴族院が庶民院で可決された法案の成立を引きのばせる期間はこれまでの2年から1年に短縮された。 1958年には保守党首相ハロルド・マクミランにより一代貴族法が制定され、男女問わず一代に限り貴族院議員に登用できるようになった。これにより貴族院の党派議席配分の変更や幅広い人材登用がやりやすくなった。この後、労働党は世襲貴族の新設を行わない旨を宣言し、保守党もそれに倣うと見られていたが、1983年には保守党首相マーガレット・サッチャーが、その慣例を破ってウィリアム・ホワイトローを世襲貴族ホワイトロー子爵に推薦して話題となった。 貴族院の一代貴族の占める割合は増加の一途をたどり、貴族院改革前夜の1998年2月の時点では世襲貴族は貴族院の59%(759名)にまで減少していた(対する一代貴族は484名)。 1963年の貴族法で世襲貴族は世襲事由が生じた時から1年以内であれば自分1代についてのみ爵位を放棄し、平民になるという選択(=貴族院議員にならないので庶民院の選挙権・被選挙権を得る)ができるようになった。また、それまで貴族院議員になれなかった女性世襲貴族とスコットランド貴族も貴族院議員に列することになった。 1999年にはブレア政権によって貴族院法が制定され、世襲貴族の議席は92議席を残して削除された。以降の貴族院は一代貴族が中心となっている。そのためこれ以降の貴族院は身分制議会というより任命制議会に近くなっている。また世襲貴族の多くが去ったことで貴族院の半永久的な保守党多数状態は終わり、以降の貴族院の勢力図は保革伯仲化し、中立派(クロスベンチャー)が重要な存在となった(貴族院の中立性)。中立派の一代貴族は退職公務員、学者、経済人、作家、労働組合幹部、芸術・科学の第一人者などから貴族院任命委員会(英語版)が推薦して叙爵するのが一般的であるため、優れた専門性を有しているとされる(貴族院の専門性)。 ブレア政権が2005年に制定した憲法改革法により2009年から連合王国最高裁判所(Supreme Court of the United Kingdom)が新設され、貴族院は中世以来保持してきた最高裁判所としての権能を失った。 2007年3月7日に議会で貴族院の構成に関する自由投票が行われ、庶民院では全員選挙制、および80%選挙・20%任命制の意見が可決されている(貴族院では全員任命制が可決される)。2010年の庶民院総選挙でも保守党・労働党・自民党の主要三政党がいずれも貴族院改革に前向きな姿勢を示した。この選挙後に成立したキャメロン保守党・自民党連立政権は2012年6月に貴族院公選制導入の法案を議会に提出したが、与党から多数の造反者が出たため、法案は撤回され、2015年に予定される総選挙後まで棚上げされることになった。そのため2014年現在のところ、まだ公選制導入の改革は実施されていない。
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