独自の記録の例
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天文10年9月3日、当時の当主六角義実が、将軍足利義稙より北陸道管領、三位権中納言に任ぜられている。義実は当時四位参議と、すでに公卿であったとされる。義実は諸侯を従三位中納言まで任ずる例がないとして辞退したが、「本来なら二位内大臣に匹敵する功があった」とする義稙の強い意向で、口宣案なしに中納言に任ぜられたとされる。21日には朝廷より中納言任官の勅使が幕府のもとに来たが、義稙は綸旨を返却したという。なお、公卿の官職・位階に昇った人物は『公卿補任』に掲載されるが、六角氏の人物が公卿として掲載された例はない。 永禄3年5月には織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を破っているが、当時の当主六角義秀はこれに対して7人の重臣が率いる2300騎の援軍を送ったという。これに先立つ永禄2年2月の記事では、今川義元が上洛するという意向を六角家に伝え、義秀はこれを認めないという返書を送ったという記事もある。六角氏研究を行っている村井祐樹は、「不自然に織田信長や豊臣秀吉に結びつけた逸話」が多いのが沢田源内作の偽書の特徴であるとしており、この記述は「その最たるもの」としている。 永禄11年12月には足利義昭より、六角義秀が「北陸道管領」に任ぜられた。通説では六角氏は織田信長による義昭上洛に抵抗したとされているが、『江源武鑑』において六角氏本宗家の義秀は、信長とともに上洛し、義昭が参内した際には信長の上座を占めたという。 義昭が征夷大将軍に任ぜられ大納言となった日、義秀と信長も公卿の官職である参議に昇った。実際には義昭がこの際に任官したのは参議であり、信長もこの日に任官したという記録は残っていない。さらに『江源武鑑』 では、この後元亀元年(1570年)11月に信長が「四品侍従」に昇進したという記事があるが、侍従は参議より下の官職である。 豊臣秀吉の前名は「木下元吉」であり、「六角氏から預けられた」高島郡を統治することになった天正3年2月17日に六角義秀から「秀」の字を賜り、「木下秀吉」と改名した。実際には「坪内文書」など、これ以前に秀吉名義の文書は多数発見されており、この時期には「羽柴」の名字を称している。 天正10年6月3日、信長を本能寺の変で討った明智光秀が六角氏居城の観音寺城を攻め、これにより観音寺城は炎上した。 義秀の子義郷は、近江八幡山城主として12万石を領し、右衛門督近衛少将に昇ったが、豊臣秀次に連座して改易された。実際のこの時期までの近江八幡の領主は豊臣秀次、次いで京極高次である。 義郷は関ヶ原の戦いにおいて、西軍から北国表の大将として起用される話があったがこれを断った。後にこれを聞いた徳川家康は義郷を取り立てようとしたが、事前に家康に内通していないとして義郷は断った。家康は義郷を「良将」であると褒めたという。 何人かの人物は通常称されている諱と異なる名前で表記されている。例えば松永久秀は「通秀」、浅井久政は「祐政」などである。
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