独自の記録の例とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 独自の記録の例の意味・解説 

独自の記録の例

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:24 UTC 版)

江源武鑑」の記事における「独自の記録の例」の解説

天文10年9月3日当時当主六角義実が、将軍足利義稙より北陸道管領三位権中納言に任ぜられている。義実は当時四位参議と、すでに公卿であったとされる。義実は諸侯従三位中納言まで任ずる例がないとして辞退したが、「本来なら二位内大臣匹敵する功があった」とする義稙の強い意向で、口宣案なしに中納言に任ぜられたとされる21日には朝廷より中納言任官勅使幕府のもとに来たが、義稙綸旨返却したという。なお、公卿官職・位階に昇った人物は『公卿補任』に掲載されるが、六角氏人物公卿として掲載された例はない。 永禄3年5月には織田信長桶狭間の戦い今川義元破っているが、当時当主六角義秀はこれに対して7人の重臣率い2300騎の援軍送ったという。これに先立つ永禄2年2月記事では、今川義元上洛するという意向六角家伝え、義秀はこれを認めないという返書送ったという記事もある。六角氏研究行っている村井祐樹は、「不自然に織田信長豊臣秀吉に結びつけた逸話」が多いのが沢田源内作の偽書特徴であるとしており、この記述は「その最たるもの」としている。 永禄11年12月には足利義昭より、六角義秀が「北陸道管領」に任ぜられた。通説では六角氏織田信長による義昭上洛抵抗したとされているが、『江源武鑑』において六角氏本宗家の義秀は、信長とともに上洛し、義昭参内した際には信長の上座を占めたという。 義昭征夷大将軍に任ぜられ大納言となった日、義秀と信長公卿官職である参議に昇った。実際に義昭この際任官したのは参議であり、信長もこの日に任官したという記録残っていない。さらに『江源武鑑』 では、この後元亀元年1570年11月信長が「四品侍従」に昇進したという記事があるが、侍従参議より下の官職である。 豊臣秀吉の前名は「木下元吉」であり、「六角氏から預けられた」高島郡統治することになった天正3年2月17日六角義秀から「秀」の字を賜り、「木下秀吉」と改名した実際には「坪内文書」など、これ以前秀吉名義文書多数発見されており、この時期には「羽柴」の名字称している。 天正10年6月3日信長本能寺の変討った明智光秀六角氏居城観音寺城攻め、これにより観音寺城炎上した。 義秀の子義郷は、近江八幡山城主として12万石領し右衛門督近衛少将に昇ったが、豊臣秀次連座して改易された。実際のこの時期までの近江八幡領主豊臣秀次次いで京極高次である。 義郷は関ヶ原の戦いにおいて、西軍から北国表の大将として起用される話があったがこれを断った。後にこれを聞いた徳川家康は義郷を取り立てようとしたが、事前に家康内通していないとして義郷は断った家康は義郷を「良将」であると褒めたという。 何人かの人物通常称されている諱と異なる名前で表記されている。例え松永久秀は「通秀」、浅井久政は「祐政」などである。

※この「独自の記録の例」の解説は、「江源武鑑」の解説の一部です。
「独自の記録の例」を含む「江源武鑑」の記事については、「江源武鑑」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「独自の記録の例」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「独自の記録の例」の関連用語

独自の記録の例のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



独自の記録の例のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの江源武鑑 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS