湿式作業室
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/07 08:24 UTC 版)
詳細は「湿式作業室(英語版)」を参照 1964年11月、フォン・ブラウンはサターン5型ロケットの第二段S-IIを使用してはるかに大型のステーションを建設するという、より野心的な提案をした。彼のプランでは、第三段S-IVBは隔壁に置きかえられていた。この隔壁は主としてその上に搭載される司令・機械船との接続部として使用され、またその内部には直径3メートルの円筒形の装置部があった。軌道に到達するとS-IIはタンクの中に残った燃料の液体水素をすべて放出し、その後装置部が大きな点検ハッチを通して液体水素タンクの中にスライドして、ステーション全体の「背骨」を構成するようになっていた。また装置部と外壁の間の空間は、幅10.1×高さ13.7メートルという非常に大きな居住区画となった (右図参照)。この構想は使用中の燃料タンクを改造するというものであったため、「湿式作業室 (ウェット・ワークショップ)」方式として知られるようになった。また電力はS-IIの外壁に貼りつけられた太陽電池から供給されることになっていた:22。 この案の問題の一つは、ステーションを打ち上げるために専用のサターン5型ロケットが必要になるということであった。この提案がなされた当時、月面着陸を成功させるためには当時製造が契約されていたサターン5のうちの何機が必要になるのかが明らかになっていなかった。その後着陸船や司令・機械船の試験のために予定されていた地球周回飛行のいくつかが中止されたことで数機のサターンIBが使用可能になり、さらなる検討作業が重ねられた結果、サターンIBの第二段として発射されるS-IVBを基礎にして、より小型の「湿式作業室」を作るというアイデアが生み出された。 S-IVBをベースにしたステーションは、1965年の半ば以降マーシャル宇宙センターでいくつかの案が検討され、これらは最終的に実現されたスカイラブの姿とかなり似通ったものとなっていた。それによれば液体水素タンク上部の、本来は月着陸船が格納される部分には気密扉が設けられ、またタンク内部にも燃料の総量を大きく減ずることのないよう、最小限の機器が設置された。内部の床は、燃料が通過できるように金属製の細かい枠組みで作られた。さらに本体が発射された後、太陽電池、装置部、ドッキング機構、様々な実験装置など、追加の設備をサターンIBが送り届けることになっていた。S-IVBの製造企業であるダグラス・エアクラフト社は、これらの線に沿って提案を準備するよう依頼された。同社はサターンI型ロケットの第二段S-IVがS-IVBに置きかえられる数年前から、すでにS-IVを基にしたいくつかのステーションの案を提出していた。 1966年4月1日、マーシャル宇宙センターはダグラス、グラマン、マクドネル社に対し「使用済サターンS-IVB実験補助区画」の名称で、使用済みのS-IVBを改造することに関する契約書を送付した:30。宇宙飛行士らは5月、宇宙空間で水素タンクを空にすることへの懸念を表明したが、7月の下旬には「軌道作業室」がアポロ計画AS-209の飛行の一部として発射されることが発表された。AS-209は元来、司令・機械船を地球周回軌道で試験する飛行のひとつであり、2機のサターンI型で司令・機械船と飛行士を打ち上げるAAP-1とAAP-2がこれに続くことになっていた。 MOL (有人軌道実験室) は依然としてアポロ応用計画と予算の獲得を競争し合っていたが、一方で二つの計画は技術面で協力関係にもあった。NASAは実験機器をMOLに搭載して飛行させることや、高価なサターンIBのかわりにタイタンIIICロケットを使用することも考慮していたが、関係機関は空軍案のステーションは大きさが不十分であり、またアポロの機器をタイタン用に改造するのは時間と費用がかかりすぎると判断した:45–48ため、1969年6月、国防総省はMOL計画を破棄した:109。
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